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社会・メディア
朝日新聞社

ウソだらけの世界で面白さだけを信じてきた ジャーナリスト・田原総一朗という存在

初出:2014年3月29日〜4月12日
WEB新書発売:2014年5月23日
朝日新聞

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 「正しいか正しくないか」ではなく「面白いか面白くないか」――50年以上もメディアの世界に生きてきたジャーナリスト・田原総一朗の発想の原点だ。映画会社からテレビ局に転職、常識を打ち破るドキュメンタリーづくりで頭角を現し、やがて退社、フリーランスのジャーナリストに。そして伝説的な深夜番組「朝まで生テレビ」「サンデープロジェクト」の立ち上げに至る華々しい表舞台の活躍。そしてその裏で進行していたプライベートの有為転変。時代をつくってきた発言者の裏側を深堀りする現在進行形の評伝。

◇第1章 「面白い」から始まった
◇第2章 メディアの歴史を変えた
◇第3章 「お気持ち」は続く


第1章 「面白い」から始まった

 「正しいか正しくないか」ではなく「面白いか面白くないか」――メディアの世界に身を投じてから50年以上になる田原総一朗(79)はそう思って生きてきた。2012年、田原が出した自伝『塀の上を走れ』は東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクター時代、ニューヨークでマフィアが経営する酒場を取材するシーンから始まる。マリフアナの煙がたちこめ、娼婦(しょうふ)がたむろする店内を撮影したいと頼むと、店長は言った。「そこにいる誰かとやったら許可してやる」。一人の女性の手を引いてベッドルームに消えた……。そのときの気持ちをこう記す。〈テレビディレクターというのは、面白い番組を作るためには何でもやる人種なのだ〉〈少なくとも、私はそうやってドキュメンタリー番組を作ってきた〉
 自伝のタイトルの「塀」は刑務所のそれを指す。時には違法行為スレスレのこともするが内側には落ちない。だから安心してくれ――田原は仕事でピンチになると、たびたびそういって切り抜けた。
 いまもマスコミの第一線で活躍する田原の原動力はコンプレックス。「僕の人生は挫折の連続。思うようにいったことはひとつもなかった」という。
 1934年、滋賀県彦根市で生まれた。実家は商家。子ども時代は画家、青年期は小説家を目指した。苦学して早稲田大学に進んだが、石原慎太郎と大江健三郎の華々しいデビューを見てあきらめた。就職試験では大手マスコミに軒並み落ちた。11社目に受けた岩波映画に入社するが、機械が大の苦手。撮影助手がつとまらず早々に仕事を干された。
 東京12チャンネルに転職したのは岩波時代にテレビ局でバイトしたのがきっかけだ。ろくに打ち合わせもしないのに「面白い」となったら、あっという間に番組にしてしまう。そんないいかげんな世界が「面白いことがやれそうだ」と魅力的に感じた。当時東京12チャンネルは開局したばかり。予算も人もなかった。誰も見る人がいないという意味で「テレビ番外地」と言われたが、それが逆に良かった。「他局と同じことをしてもしかたない。だったら思い切って危ない橋を渡ってやろう」と開き直った。
 入社後、田原は常識を打ち破るドキュメンタリー番組を作り続ける。がんで片腕を失った俳優のドキュメンタリー。主人公が「国会の前で猟銃を撃ちたい」というので、実際に猟銃を準備して撃たせた。「ピアノを弾きながら死にたい」という山下洋輔を民青が占拠するバリケートの中に連れて行きライブを開く。ポルノ女優の白川和子に老人ホームを慰問させ、乳房を触らせるシーンを撮って放映したときは苦情の電話が鳴り響いた。「この時代が青春だった」と振り返る。



◎テレビ復帰後に襲った災難
 だが、42歳の時、退社を余儀なくされた。会社勤務のかたわら桃井かおりの本格デビュー作となった映画「あらかじめ失われた恋人たちよ」を撮影したが興行的に失敗。借金を背負った田原はアルバイトで原稿を書くようになる。そして、原子力船「むつ」の放射線もれ事故に着想を得て、月刊誌で原子力業界についての連載を始める。推進派に食い込み、原発のトラブル隠しや大手広告会社の反原発運動潰しを暴いた。連載は大きな反響を呼んだが、テレビはスポンサーに弱い。社内的に問題になった。
 退社後はフリーライターに。その頃、田原は3歳年上のいとこ、末子と結婚し2人の娘がいた。黙って夫の決断を受け入れた末子は娘たちにこう言ったという。「これからはパパにかかってくる(仕事の依頼の)電話がお金になる。おトイレにいても出るのよ・・・

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