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朝日新聞社

昭和を揺るがせた大事故録 だからそれは惨事となった

初出:2010年7月3日、2012年12月15日、2013年8月3日
WEB新書発売:2014年6月6日
朝日新聞

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 陸を走る列車、海を渡る船舶、空を駆ける航空機。どんなに安全を期していても、事故が起きることはある。だが、その原因が不可抗力ではなく、人間の不注意や判断ミス、整備の手抜きだったとしたら……。それは「人災」となる。昭和の世に衝撃を与えた陸海空それぞれの大事故も、そんな背景を抱えていた。理不尽にも命を落とした人々、そして残された家族の思いとは。あまりに痛ましく、だが決して忘れてはならない事故現場を再訪する。(年齢、肩書は掲載時のものです)

◇〈昭和26年4月24日〉国電桜木町列車火災/バラック電車、戦時のツケ
◇〈昭和29年9月26日〉青函連絡船・洞爺丸沈没/一瞬の青空が招いた大惨事
◇〈昭和60年8月12日〉日航ジャンボ機墜落事故/遺族追究、国・企業動かす


〈昭和26年4月24日〉国電桜木町列車火災/バラック電車、戦時のツケ

 国鉄京浜東北線の桜木町駅で焼死者106人を出した63形車両は、太平洋戦争中の1944(昭和19)年春に登場した。


 物資が欠乏し、すべては陸海軍優先。鉄不足のため複線を単線にしてレールを供出させたほど軍の力は強かった。設計担当だった北畠顕正さん(故人)が「安く人手をかけず早く造れ。寿命は犠牲にしてもいいと命令された」と回想した63形は、鋼板を2・3ミリから1・6ミリに薄くし、屋根は木製で布張り。天井は骨組みがむき出しで、照明は裸電球。軍需工場への人員輸送に使うすし詰め専用車両だった。
 3段に区切った窓が外観の特徴だった。中段を固定し上下段を開けて、混雑時でも立ち客、座り客の双方に風を送る狙いと説明されたが、本当はガラスの節約。枠が多ければガラスが少なくて済む。鋼管に通すはずの配線類も床下に木で棚を作りテープで巻いてとめた。視察に来た東条英機首相に寿命を聞かれ、鉄道省幹部は苦し紛れに「大東亜戦争完遂までは……」と答えるしかなかった。
 「バラック電車」と揶揄(やゆ)されつつ、63形は戦後5年で900両以上量産され、復興期の激増する旅客輸送を担った。
 大事故の予兆はあった。東京・高円寺など3カ所でいずれも床下から出火。国鉄で新幹線総局次長を務め、今は国連開発計画(UNDP)の上級アドバイザーを務める斎藤雅男さん(91)は「何とかしたくてもカネも物資もない。占領下でGHQの了解も必要だ。敗戦後6年たっていたが、車両は戦争中そのものだった」と振り返る。
 斎藤さんによると、戦争中は熟練工を兵隊にとられ、43年以降は一切の車両で定期検査、修繕をしていなかった。粗悪な材料を使いボイラーが爆発するという信じられない事故を起こした蒸気機関車もあった。
 桜木町駅の事故では、車両は10分程度で全焼したという。木の屋根に可燃性塗料を塗った布が張られていて火の回りを早めた。「電流がショートしたが、過電流による送電停止が珍しくなかったため、火災発生に気づかず5分間にわたって送電を続けた」(斎藤さん)ことも火勢を強めたとされる。
 車両の構造が犠牲者を増やした。架線に絡んだパンタグラフを運転士が即座に下ろしたため、電動の乗降用扉を開けられなかった。3段窓の上下段は幅29センチと狭く、乗客が脱出するのはほぼ不可能。非常用ドアコックは場所が明示されていなかった。
 今なら当たり前の、隣の車両とつなぐ貫通扉は、検札逃れが増えるといった理由で普段は使えない状態だった。しかも内側に開く方式で、殺到する客に押されて外から開けられなかった。
 桜木町の事故は、鉄道車両の火災に対する安全性を向上させるターニングポイントとなった。国鉄は、車両構造を改め、不燃、難燃の仕様を採り入れるなど63形を大幅に改造、2年かけて対策を講じた。名前も73形に変えた。
 63形は「痛勤電車」の定番である全長20メートル、片側4扉を初めて採用した、いわば原型。事故から59年たった今、桜木町駅には列車火災を思い起こさせる物は何もない。世界最高水準の耐火基準を満たしたステンレス製車両が、次々に発着しているだけだった・・・

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