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科学・環境
朝日新聞社

玄海原発生き証人の回想 九電初の原発をめぐる推進側と反対者の証言集

初出:2013年6月11日〜6月22日、8月22日〜8月26日、9月28日〜9月30日
WEB新書発売:2014年7月4日
朝日新聞

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 近年、プルサーマル運転を最初に実施し、再稼働をめぐる「やらせメール事件」で物議を醸した九州電力玄海原発は、日本の原発政策における政官財の癒着構造を体現している。県職員時代に「最終的にはお金の問題」と用地買収や漁業補償交渉などで成果を上げた佐賀県の元知事、一貫して原発と原発マネーに依存する玄海町の現町長、国と県に原発操業停止を求めて係争中の佐賀大元学長、反原発闘争を40年続ける原水爆禁止県協議会現会長の4人が、それぞれの立場から玄海原発誘致以来の秘話や福島原発事故後の心境を語る。

◇第1章 誘致は地域振興のため 井本勇氏
◇第2章 裁判で原発を止める 長谷川照氏
◇第3章 原発で生きてきた町 岸本英雄氏
◇第4章 反核・反原発の闘志 緒方克陽氏


第1章 誘致は地域振興のため 井本勇氏


◎上場振興へ活路「原発しかない」
 かつて「佐賀のチベット」とも呼ばれた上場(うわば)地区。台地に大きな河川はなく、しばしば干ばつに見舞われ、多くの住民が出稼ぎを余儀なくされた。
 その上場地区の一角、玄海町値賀崎の名前が広く世の中に知れ渡るようになったのは、1965(昭和40)年4月のことだった。国が九州での原発立地の調査地点として名前を挙げた。
 当時は59年に就任した池田直知事の2期目。知事就任時は、エネルギー革命により、県内の産炭地にも苦境が訪れ、県炭鉱不況対策協議会が、石炭利用を進めるため、火力発電所誘致を決めたころだった。
 そんな中、中央で九州にも原発立地計画があることを聞きつけた池田知事は、「誘致」に向けて、ある職員に白羽の矢を立てた。
 当時、経済部工鉱課の工業開発係長で、後に3期12年にわたって知事を務めることになる井本勇氏だ。
 唐津市山本で農業を営んでいた「保利」家に生まれた井本氏。小学校のころ、杵島炭鉱に勤めていた母親の弟の井本家に養子に入った。敗戦後、井本氏の兄弟が就職先を心配し、縁戚にあたるという、衆院議長も務めた故・保利茂氏のところに相談に行った。保利耕輔衆院議員の父だ。地元が同じということもあり、しばらくして県庁への採用が決まった。
 県庁生活は47年、杵島地方事務所からスタート。61年からは経済部工鉱課工業振興係長、63年からは同課工業開発係長を務め、企業誘致を担当していた。原発の話が持ち上がったのはそんなころだった。
 「当時原発の担当組織も何もなかったですから。工鉱課というのがあって、一つは産炭地、一つは低開発地域に工場誘致を図って盛んにしようと。農業だけでは付加価値が低いので、工業を一緒にやった方がいいと。『農村工業化』とか『農工一体』って言葉がはやった。私は企業誘致の担当で一生懸命やった。国道34号沿いの大企業はほとんど手がけましたよ。そんな私に、たまたま原発の話があったんです」
 開発が遅れていた上場地区。池田知事は「上場振興には原発しかない」と考えたという。
 「上場に飛行場をつくろうって話もあったけど、風の関係でダメになった。水とか土地の問題で、なかなか適当なものがないという時に、池田さんは『原発で行こう』と。そして、私に『やれ』と」
 池田知事の意を受け、井本氏が真っ先に向かったのが玄海町だった。玄海町議会の議長室を訪れ、協力を求める井本氏に対し、当時の中山しげき(しげき)議長がこんな言葉で応じた。
 「たかが県の係長がなんば言いよるとか・・・

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