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科学・環境
朝日新聞社

鎌田慧「隠された公害」 声なき人々に寄り添う社会派ルポライターの原点

初出:2014年6月11日、6月18日、7月2日
WEB新書発売:2014年7月11日
朝日新聞

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 期間工として自動車工場で働いたルポ「自動車絶望工場」などで知られ、福島原発事故後は被災者を支援し、反原発論者として行動するルポライターの鎌田慧。その声なき人々に寄り添う原点はどこにあったのか――。フリーライターになった1968年、公害病に認定された水俣病を追って熊本に飛び、翌年から対馬のイタイイタイ病を取材する。だが、対馬のカドミウム汚染は隠蔽され、労働者も実態を明かすことはなかった……。鎌田の最初の社会派ルポ作品「隠された公害」の背景や反響を詳しく紹介する。

◇第1章 水俣ルポ そして対馬へ
◇第2章 研究家名乗り潜行取材
◇第3章 内部告発の手紙 届いた


◇第1章 水俣ルポ そして対馬へ


 30歳になった1968年、私は新評編集部を辞めて、フリーのルポライターになった。
 「いずれはフリーに」と考えていた私の背中を押したのは、「鎌田君、ビールのように爽やかな雑誌にしようぜ」という社長の言葉だった。社会性のあるルポルタージュを重視する編集方針は一部の執筆者に強く支持されていたものの、社長は重いテーマにまったく関心がなかったのである。
 鉄鋼新聞記者時代の65年に結婚し、翌年に長男が生まれていた。当時の雑誌の原稿料は原稿用紙1枚千円程度だったが、30枚の原稿を2本書けば6万円はもらえる。大学時代に知り合った1歳年上の妻は東大生協の書籍部に勤務していた。「2人で働けば何とか暮らせる」と考えた。
 新婚時代は世田谷区下北沢の6畳一間のアパートに住んだ。長男が生まれると、私の姉に預けて共働きするため、姉の家の近くの北区赤羽のアパートに移り住んだ。妻は長女が生まれる70年まで働き、家計を支えてくれた。
 私がフリーになった年の秋、政府は、熊本県水俣湾と新潟県阿賀野川流域で発生した水俣病について、工場排水に含まれるメチル水銀が原因の「公害病」と認定した。鉄鋼業への興味から鉄鋼新聞社に入った私は、産業発展の「影」にも関心があった。9月26日に政府見解が発表された直後、熊本に飛んだ。
 『苦海浄土 わが水俣病』(69年刊)で第1回大宅壮一ノンフィクション賞に輝きながら受賞を辞退することになる作家石牟礼道子さんを訪ねた。取材をお願いしたら、「久美子さんのことを書いて」と言われた。5歳の時に発病し、目も見えず体を動かすこともできず、12年間寝たきりになった松永久美子さんのことだった。
 フリーになって1年間ほど、講談社発行の週刊女性誌「ヤングレディ」の契約記者をしていた私はカメラマンと一緒に入院中の彼女を取材した。同誌掲載の無署名ルポには、「水俣病の犠牲者 学校も知らない、友だちもいない…久美子ちゃん」という見出しがつけられた。
 翌69年6月、知り合いの三一書房の編集者から、「取材してみませんか」と、朝日新聞社が発行していた週刊誌「アサヒグラフ」を見せられた。「神聖喜劇の島・対馬の『イタクナイ、イタクナイ病』」というタイトルの記事が掲載された同年5月30日号だった・・・

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