【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

政治・国際
朝日新聞社

100年後のサラエボ事件〔1〕 憎悪の歴史が浮かび上がらせる「民族」の正体

初出:2014年7月7日〜7月16日
WEB新書発売:2014年8月7日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

1914年6月28日、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボで起きた、セルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺事件。オーストリアはセルビアに対し宣戦布告、セルビアには同じスラブ系の帝政ロシア、さらに英仏などが味方し、オーストリアには同じゲルマン系のドイツが肩入れし、やがて泥沼の塹壕戦へと発展する。こうして始まった第一次世界大戦で失われた人命は、一千万に達する。日本から見ると過去の事件だが、サラエボを訪ねてみると、100年前の歴史が、今なお人々を動かしていることを肌で感じることができる。1990年代の内戦でも20万とも言われる犠牲者を出した土地で、主要3民族、それぞれ100年前から住む家族の歴史を描いてみることで、ボスニアの歴史と今を描き出してみたい――緻密な取材で「民族」というものの正体を浮かび上がらせる、ユニークなルポ。

◇第1章 世界変えた2発の銃弾
◇第2章 テロリストか英雄か
◇第3章 三つの民族、二つの準国家
◇第4章 祖父は暗殺を目撃した
◇第5章 民族自決から報復の連鎖へ
◇第6章 拘束おそれ避難、一家で改名
◇第7章 私はヨーロッパ人だ
◇第8章 異なるものが生きた街なのに


第1章 世界変えた2発の銃弾

 その日は朝から快晴で、初夏の日差しが街角に鮮やかなコントラストを作っていた。
 2014年6月28日、私はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにいた。1914年のこの日、この街を舞台として起きた「サラエボ事件」から100年を迎える節目について取材するためだった。
 「サラエボ事件」。最初にその名を目にしたのは、確か教科書の記述だった。第1次世界大戦が勃発するきっかけとなった、オーストリア皇太子が殺された事件、という説明をぼんやり記憶している。「欧州の火薬庫といわれたバルカン地方」といった表現もあったような気がする。
 だが、詳しい経緯は知らなかった。遠い日、遠い地のごたごた、という印象しか残っていない。
 その後、自分が成人して新聞記者となり、海外特派員を務めるようになって、この事件の舞台となったサラエボが、すっかりなじみが深い街になるなんて、考えもしなかった。
 まず、この事件の経緯を、再現してみたい。
 ボスニアは長年、オスマン・トルコ帝国の支配下にあったが、19世紀後半からは、オーストリア・ハンガリー二重帝国が領有していた。


 その属領ボスニアを、支配者であるハプスブルク王家の皇位継承者(皇太子)だったフランツ・フェルディナント大公が、妻を伴って初めて訪れたのは1914年6月最終週。主な目的だった軍事演習の視察を終え、その日は、サラエボ市庁舎で演説した後、帰途につくはずだった。
 ただし、現地では誰もが歓迎したわけではなかった。オーストリア・ハンガリー帝国の支配を憎み、この地域に住むスラブ系のいくつかの民族を糾合した「南スラブ人」が、帝国の横暴から脱するために一致団結して力で抵抗するべきだ、という考え方があった。そう信じる若者たちの結社「青年ボスニア」が、皇太子をサラエボで待ち受け、暗殺する計画を立案したのだった。
・・・

このページのトップに戻る