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朝日新聞社

柳川雅子ナガサキノート 原爆投下直後の長崎で信じられぬ光景を見た

初出:2014年7月14日〜26日
WEB新書発売:2014年8月7日
朝日新聞

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 1945年8月9日、県立長崎高等女学校の3年生だった柳川雅子さんは、学徒動員で働いていた三菱兵器大橋工場で「悪魔の如き原子爆弾」に遭遇した。強烈な閃光が工場内に走った直後、爆風で吹き飛ばされて地面にたたきつけられた。傷つき、火の海となった工場を脱出して町をさまようが、鈴なりの黒こげ遺体など、爆心地で見た光景は……。腕の痛みに耐えながら病院でつづり、GHQの検閲で発禁となった14歳の被爆体験記が出版に至る顚末とともに、そこに書き切れなかった遠い辛い記憶を振り返る。

◇14歳で被爆体験つづる
◇ピンク色の光で染まる
◇助け求める人を救えず
◇信じられぬ光景を見た
◇トンネル壕で夜明かす
◇水ばくれんですかの声
◇投下翌日、まだ熱い地面
◇父の判断で福岡で療養
◇体験記出版に検閲の壁
◇GHQ、発禁処分の判断
◇父親が奔走、出版が実現
◇米軍司令官、出版後押し
◇体験を語る使命感じる


◎14歳で被爆体験つづる

 長崎に原爆が落とされて間もない1945年10月、14歳の少女が病床で被爆体験をつづり始めた。体験記は「雅子斃(たお)れず」と題した一冊になり、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲に遭いながらも、世に出ることになる。
 その少女は、当時、県立長崎高等女学校の3年生だった柳川(やながわ)(旧姓石田〈いしだ〉)雅子(まさこ)さん(83)だ。柳川さんが体験を書いたのは、東京にいた兄、穣一(じょういち)さん(86)が作っていた「石田新聞」に載せるためだ。穣一さんは、疎開などで散り散りになった親戚の近況を手作りの新聞にまとめており、柳川さんを心配する親戚のために、妹に体験を記してもらおうと考えた。乗り気ではなかった柳川さんだが、4回に分けて、原稿を送った。
 柳川さんは振り返る。「書き切れていないことがたくさんあるんです。書く腕も痛かったし、思い出したくもなかったから、飛ばし飛ばし要点だけ書いた。もっと克明に見たんです」。本には記していない、ずっと抱えてきた自責の念もあった。

◎ピンク色の光で染まる

 柳川雅子さんは東京出身で、1945年4月に長崎に引っ越した。裁判官だった父、寿(ひさし)さん(1895〜1962)が長崎地裁所長になったためだ。
 45年8月当時は、学徒動員で三菱兵器大橋工場(現在の長崎大の場所)で働いていた。魚雷に水漏れがないようハンマーで鋲(びょう)を打つ仕事をしていた。
 同月9日、午前に空襲警報が出て、同級生らと山側の防空壕(ごう)に避難した。3日前に広島に落ちた「新型爆弾」のことが話題になった。前年、寿さんは、広島への転勤の話もあったため、同級生とは「広島に行かなくて良かったね」と話していた。
 午前11時2分。工場内に戻り、机にもたれ、少し休んでいる時だった。突然、背中側から熱を帯びた強烈な閃光(せんこう)が走った。ピンク色の光であたりは染まった。東京で幾度も空襲を経験した柳川さんは「空襲とは違う。魚雷が破裂したのかな」と思った。2秒ほど後、一気に吹き飛ばされた。

◎助け求める人を救えず

 柳川雅子さんは爆風で飛ばされ、地面にたたきつけられた。10メートルほど飛ばされたように感じた。物が落ちてきて下敷きになったが、何とかはい出した。ガラスや色々な破片が散らばっていた。首のあたりから大量に血が流れ、首筋をけがしたのだと思った。
 工場はすぐに火の海と化した。柳川さんの脳裏には今も、そこから逃げた時の光景がこびりついている。
 数人が崩れた建物の下敷きになっていた。「助けて」「助けて」。救いを求める手が伸びてきた・・・

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