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朝日新聞社

俣一の秘密戦士たち〔3〕 陸軍中野学校二俣分校、戦地任務そして戦後

初出:2014年6月28日〜7月19日
WEB新書発売:2014年8月7日
朝日新聞

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 日本軍の敗退が続き、本土空襲が始まった。1944年末、「俣一」230人は国内外に遊撃戦指導者として配属された。だが戦地では、玉砕を辞さず、正攻法の武力戦をよしとする士官学校出の軍人に軽視された。小野田寛郎も同様だったが、敗戦後も「残置諜者」としてフィリピンのルバング島で孤独な闘いを続けた。一方、玉音放送後に証拠処分をした二俣分校は8月25日に閉校……。「中野学校の精神」とは何だったのか。今日の特定秘密法、集団的自衛権をどう考えるか。秘密戦士や教官らの戦中戦後を追う。

◇第1章 激戦地潜入、ゲリラ戦指導
◇第2章 「本土決戦へ」住民協力説く
◇第3章 「灰皿ひとつも証拠残すな」
◇第4章 全能力使い潜伏「戦闘継続」
◇第5章 人間、目標あれば生きられる
◇第6章 「生きる」学んだ2万人の子
◇第7章 心の深い傷「中野は語らず」
◇第8章 情報ゆがめた「大本営発表」
◇第9章 「中野の精神」様々な分野で
◇第10章 「誠」の歴史、語り継ぐ人々


第1章 激戦地潜入、ゲリラ戦指導

◎実践―国外へ
 日本軍は1944(昭和19)年10月、神風特攻隊が初出撃したフィリピン周辺のレイテ沖海戦でも敗退した。サイパン島など太平洋の重要拠点が次々と奪われていた。
 二俣分校の1期生約230人は国内(沖縄、樺太含む)の軍司令部のほか、アジア各地に送られた。
 うち40人ほどがフィリピンへの赴任を命じられた。米軍との攻防がヤマ場を迎えていた。
 44年12月、23歳だった大野唯雄(ただお)(93)=奈良市=は同期生とともに、宇都宮の飛行場から爆撃機に乗せられた。
 武器の備えがない機体は悪天候のなか、沖縄、台湾などを経由してルソン島に向かった。海上は制空権を失っており、敵に見つかればひとたまりもない危険な状態だった。
 座席さえない。爆弾を積む場所にみんなで縮こまっていた。猛烈に寒かった。
 22歳の小野田寛郎(ひろお)(故人)も機内にいた。
 大野らが着任を報告したマニラの軍参謀部別班は「南方自然科学研究所」と偽装されていた。大野は敵の艦船と飛行機の監視を命じられた。暗号を頭に入れ、無線機を持ち、開襟シャツ姿で民間人を装い、部下の3人と出発した。
 米軍が日本本土に上陸しても、フィリピンにある米軍の後方基地を攪乱(かくらん)して戦意を喪失させる――。遊撃(ゲリラ)戦の狙いだ・・・

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