NHK大河ドラマで注目される黒田官兵衛。知略に長けた戦国武将は羽柴(豊臣)秀吉のもとで、どんな武功を立てたのか。誕生したとされる姫路城から、「鳥取の渇え殺し」として知られる兵糧攻めで落とした鳥取城、国内で初めて実行されたという水攻め戦法で落とした岡山の備中高松城、秀吉の九州攻めの際に平定した豊前で築城し天下取りを夢見たという大分の中津城、官兵衛最後の大いくさ「石垣原の戦い」の地・別府まで、史実や観光地の声などを交えつつ名軍師の軌跡をたどる。
◇第1章 姫路城「大河」契機に攻勢
◇第2章 兵糧攻め、悲劇の学び今も
◇第3章 水攻め、敵将の徳は沈まず
◇第4章 中津に築城、今昔にぎわい
◇第5章 九州手に夢見た天下取り
◎城主の変遷、逆手にネットワーク
官兵衛が生まれたのは1546年。諸説あるが、当時の姫路城で誕生したとされる。
父の黒田職隆は播磨の小寺氏に仕える武将で、姫路城代を務めていた。官兵衛は幼少時から利発で知られ、元服してからも敵軍の侵攻を退けるなどして近隣にその名が知られる存在だったという。
天下統一を目指す織田信長と中国地方の覇者・毛利氏の対立が明確になると、官兵衛は主君の小寺氏に織田につくよう説得。自ら信長の居城・岐阜城へ使いに立ち、信長から後に国宝となる名刀「へし切長谷部」(福岡市美術館所蔵)を与えられた。
中国攻めを命じられた羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入り、播磨の諸将に味方するよう説得。毛利方についた有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重のもとにも赴くが、思わぬ落とし穴が待っていた。
反信長の意思が固い荒木村重は官兵衛を有岡城の地下に幽閉。官兵衛はジメジメしたろくに体も動かせない地下の土牢に閉じ込められた。説得から帰ってこない官兵衛を、信長は寝返ったとみて息子の松寿丸の処刑を秀吉に命じた……・・・