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政治・国際
朝日新聞社

100年後のサラエボ事件〔2〕 民族自決が招いた悲劇の群像

初出:2014年9月24日〜9月30日
WEB新書発売:2014年11月27日
朝日新聞

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 第一次世界大戦が始まって100年がたった2014年、発端となった「サラエボ事件」の舞台、サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都)。そこに暮らす、主要3民族の家族の歴史を通じて、この事件が現在に投げかける問題を探る。第二弾となる本書では、ユダヤ人として極右民族主義集団ウスタシャに追われた経験を持つカトリックのクロアチア人、ユーゴ王国の要職を務めた人物を輩出しながら、王国の崩壊により、ウスタシャからも、その後誕生した社会主義政権からも迫害されたクロアチア人、セルビア人を助けたため社会主義政権から顕彰されるも、クロアチア寄り、とされた著作が発禁処分とされたモスレム人の家族を紹介する。「民族自決」という幻想に翻弄された家族の運命から透けて見えるものは?

◇第1章 「民族自決」でくくれぬ現実 
◇第2章 「なに人か」昔は聞かなかった
◇第3章 父は「好ましからざる人物」
◇第4章 社会主義体制の下で
◇第5章 五輪、つかの間共存の夢


第1章 「民族自決」でくくれぬ現実

 二つの大戦と1990年代の内戦で、サラエボは20世紀に3度も戦火をかいくぐった。この街の人々を見つめることで、複雑な民族問題の背景が見えてくるのではないか。そう思って取材を始めたのは、まだ2014年春先だった。
 だが、ロシアが3月、ウクライナからクリミアを分離併合した。ウクライナ東部では親ロシア派と政府軍の武力衝突が続き、欧州ではもう起きないかと思われていた、国家同士の本格的な戦争すら懸念される事態になってしまった。サラエボの来し方をたどる取材は遅れがちになった。

 もっとも、今のウクライナとかつてのボスニアは、全く無縁ではない。大きな歴史の流れの中で、一つの系譜に位置づけることもできるのだ。

 WEB新書『100年後のサラエボ事件〔1〕』の冒頭で紹介したように、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子を射殺した実行犯、セルビア人青年ガブリロ・プリンツィプは、この地域の複数の民族が「南スラブ人」として、大同団結して帝国支配に抗するべきだと信じていた。
 第1次大戦でオーストリア帝国は崩壊し、セルビアは戦勝国となった。その結果として、プリンツィプが大義として掲げた南(ユーゴ)スラブ人の「民族自決」をうたったユーゴスラビア、という国がセルビア主導で誕生した。
 しかし、やはり前回たどったように、その中にはさまざまな矛盾が残った。やがて、第2次大戦で噴出した。
 一方、現在のウクライナは第1次大戦まで、西側をオーストリア帝国に支配され、東側はロシア帝国の版図に置かれていた。大戦を通じ両帝国は崩壊したが、ウクライナでは民族自決を掲げた完全独立の動きは続かなかった。
 旧ソ連の核となったロシアという強大な存在が東隣に控える。その影響下で、ウクライナ人は自分たちの国を動かすことはできなかった。矛盾はソ連崩壊後も残り、それが現在の混迷の根にある。
 民族自決という美名だけではくくれない複雑な現実が、どちらの国にも存在する。人々の帰属意識はそんなに単純ではないのだ。
 サラエボでそのことを端的に感じた例が、『100年後のサラエボ事件〔1〕』で取り上げたズドラフコ・ラタルさん(77)だった。
 彼の祖父は、当時のオーストリア帝国で最先端の鉄道技術エリートとして、同じ帝国内のチェコからやってきた。祖父はカトリック教徒。ボスニアでは、カトリックはクロアチア人が圧倒的多数だったため、周囲は一家をクロアチア人と同一視した。だが、ズドラフコさんはそれを拒絶し、「私はヨーロッパ人」と言い切ったのだった。
 そのズドラフコさんから、さらに驚くような話を聞いた。「私には、ユダヤ人のいとこがいる。会いたいかい・・・

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