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政治・国際
朝日新聞社

借金も人口も地域活性も落第 学ばない国ニッポンの暗い未来

初出:2011年7月30日、2013年1月19日、2月23日
WEB新書発売:2014年12月4日
朝日新聞

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 失敗から学ぶことができなければ、人間だって組織だって国家だって成長できない。赤字国債を発行し続け、限界まで膨らませた借金をどう返すのか。1億人を突破した時から分かっていた人口減に打つ手はあるのか。もはや誰も信じていないであろう過疎地の活性化はどう実現させるのか。この国で政治家が政治家としての役割を果たさなくなって久しい。過去に学ぶ気もなければ学ぶ力もない。国家も国民も総劣化状態に突入したニッポンに、未来はないのかもしれない。(年齢、肩書は掲載時のものです)

◇昭和40年(1965年)11月19日
 戦後初の赤字国債発行決定/借金財政、覚悟のかじ切る
◇昭和42年(1967年)7月
 人口1億人突破/産官こぞって「家族計画」
◇昭和47年(1972年)6月
 「日本列島改造論」出版/地価高騰、消えた過疎克服の夢


〈昭和40年(1965年)11月19日〉
 戦後初の赤字国債発行決定

◎借金財政、覚悟のかじ切る
 住宅ローンに頼らずにマイホームを建て、家具や電化製品も一括払いで買う。家計に例えれば、敗戦から東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年までの日本国の財政は、こんな調子だった。
 47年施行の財政法は「国の歳出は公債や借入金以外の歳入を財源としなければならない」と定める。膨大な戦費を日本銀行引き受けの公債で調達し、敗戦後に財政崩壊とすさまじいインフレを招いた反省からだ。例外的に公共事業費は国会の議決の範囲内で建設国債を発行できるが、「日本銀行に引き受けさせてはならない」のが原則だ。
 実際、税収の大幅な自然増が続いていた60年代前半までは歳入の範囲内で歳出を賄えていた。建設国債も発行せず均衡財政を実現していた。
 オリンピックまでの集中投資の反動で、65年になると様相が一変する。山陽特殊製鋼が戦後最大の負債額(当時)で倒産し、経営危機の山一証券には日銀の特別融資が行われた。不況が深刻化し、税収不足も明らかになってきた。
 そうした中、佐藤栄作内閣で6月に蔵相に就いた福田赳夫が、公債発行を決断した。「公債はうまく使えば景気の調整弁になる」が持論。「不況の時は公債発行で景気を刺激できるし、景気がよくなり過ぎれば発行を抑制するか、やめれば景気が正常に戻る」「悪用すれば大変な過ちとなるが、適切に運用すると景気を平準化する機能を持つ妙味がある」(「回顧九十年」)
 11月19日の閣議で赤字国債発行を決定した。規模は2590億円。大蔵省内には「公共事業費の範囲内なので、建設国債として発行しては」という案もあった。赤字国債で必要となる特別措置法が、建設国債なら必要ないからだ。



 秘書官を務めた娘婿の越智通雄・元衆議院議員は「公債政策の導入は福田財政の特色。それを赤字国債で始めることに内心強い不満を抱いていた」と話す。それでも福田は「戦後初の公債発行は国会の承認を得るのがけじめだ」と赤字国債で押し切った。
 65年度の発行額は結局2千億円。赤字国債はこの1年限りで、66年度からは建設国債だけを発行した。
 政府が再び赤字国債発行に追い込まれたのは10年後。74年は石油危機を受けて戦後初のマイナス成長を記録、翌75年度は4兆円近い歳入不足に陥り、補正予算で2兆円の赤字国債を発行した。




 時の蔵相は大平正芳。「小さな政府」が持論で「赤字国債は財政規律を乱す麻薬」と反対してきただけに、発行に際して「万死に値する」と漏らした・・・

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