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朝日新聞社

満州庶民の戦争/戦前編 中国人を侮蔑した少年時代/高橋敏夫氏の証言

初出:2014年10月7日〜10月25日
WEB新書発売:2014年12月4日
朝日新聞

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 戦前の旧満州国で生まれた少年は、南満州鉄道(満鉄)が経営する炭鉱の町で裕福に暮らしていた。日本人専用の電車や病院があり、中国人が間違えると大騒ぎになった。日本人しか食べてはいけない物を中国人が食べると刑務所行き。ゴミ箱をあさる中国人を日本人警官が投げ飛ばした。それが「差別」とは気づかなかった。そして、軍国教育を信じて疑わなかった少年は12歳で敗戦を知り、その日から日本人の「命の心配」が始まった……。岩手県に暮らす81歳の元教師が、「歴史は反省材料の宝庫。それを残すことは未来のために必要」と、庶民の戦争体験を語る。

◇第1章 貧しく、父は満州で兵役
◇第2章 小学生も木銃で訓練
◇第3章 空砲撃ち合う模擬演習
◇第4章 射撃や飛行訓練に憧れ
◇第5章 「満鉄王国」は格差社会
◇第6章 片足の人形、忘れぬ光景
◇第7章 子の感情ゆがめた教育
◇第8章 至る所で中国人を差別
◇第9章 大人相手にゴルフ退治
◇第10章 町も食料も明確に分断
◇第11章 戦勝信じ、励む物資作り
◇第12章 幼い頃から軍人が目標
◇第13章 撫順に残り生きのびた
◇第14章 敗戦、それからが命がけ


第1章 貧しく、父は満州で兵役

 岩手県北上市の元中学教諭高橋敏夫さん(81)は、中国の旧満州で生まれた。父親は南満州鉄道(満鉄)の社員だった。
 明治生まれの父親は湯田村(現西和賀町)の貧乏百姓の三男です。財産は一切なく学歴もなし。家の手伝いをしていたが、家を継いだ兄ですら食えないほどの貧しさでした。それで大正時代に満州に兵隊に行ったんです。満鉄が持つ施設などを警備する守備隊員です。
 そこで7年勤めて、将校寸前までいきました。兵隊上がりとしてはそれが最高位でその先はなく、任期満了みたいに退役。そのまま満鉄に入ったのです。そして、ふるさとから嫁さんをもらって、昭和8(1933)年5月3日に私が生まれました。
 父の名は権五郎。ごんごろうです。三男ですし、権三郎(けんざぶろう)とつけたんですが、出生届を頼んだ人が、役場に着く前に名前を忘れて「確かごんごろうだったな」と届け出たそうです。それを家族も本人も知らずに「けんざぶろう」と呼ばれて育った。
 ところが小学校に入ったら「高橋ごんごろう」と呼ばれて、本人は「それは誰のことだ」とびっくりしたそうです。終戦でふるさとに引き揚げてきたら周りからは「けんざぶろうさん」と呼ばれていました。落語みたいな、おうような時代でしたね。
 満鉄は、国と民間が1億円ずつ出してつくった半官半民の会社です。鉄道は、元はロシアのものでしたが、日露戦争に勝った日本がもらい、すでにあった鉄道と合わせて経営するために設立されました。
 そのとき、鉄道を守るための兵隊を配置する駐兵権も獲得して、鉄道守備隊が生まれました。おやじはそこに行ったわけです。これが後に関東軍になります。
 満鉄の総裁は国が任命し、初代は水沢出身の後藤新平でした。鉄道だけではなく炭鉱開発や製鉄業などもやっていました。私が暮らした撫順(ぶじゅん)という町は炭鉱の町でした。
 石炭は戦力ですから、どんどん掘った。それを日本に運んだ。中国人にすれば自分たちの地下資源を日本人が掘って日本に持ち帰って戦争に使うわけですから、不愉快でしょうね。
 当時、撫順の町に日本人は約4万人住んでいました。お菓子屋や酒屋といった商店をやっている日本人も結構いましたが、7割以上は満鉄関係者でした。
 五つある日本人の小学校はすべて、満鉄立の「撫順在満国民学校」です。先生も全員、満鉄の社員で、内地から来ていました。
 私が通った小学校は撫順東公園在満国民学校です。生徒は1学年3クラスで35人から40人。全校で約700人でしたが、岩手ではやたらに多い、私の姓の「高橋」は2人だけでした。
 満鉄という会社は、東京帝大出身者らエリート社員が多かったんです。東京や関西、九州など全国から集まっていて、東北人は少なかった。
 それに対して兵隊は、東北出身者が多かった。開拓団にも多かった。現地には岩手のことを「女郎と馬の産地」と言う人もいました。その東北より中国は、もっと貧しかったですね・・・

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