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文化・芸能
朝日新聞社

若者は、渋谷を目指し、生きる 流行が生まれては消え、漂う街

初出:2014年11月6日〜11日27日
WEB新書発売:2014年12月11日
朝日新聞

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 渋谷、と聞いて何をイメージするだろうか。「坂の上のお城」パルコは周囲のデパートとはなんだか違って見えた。宇田川町のレコード店で探し求めていた1枚を見つけた時の喜びは格別だった。「109」に集う女子高生たちの格好やおしゃべりの迫力と言ったら……。渋谷に行けば、いつだって若者たちに何が流行っているのかを知ることができた。そんな街が、ちょっと変わりつつある。若者にも、大人にも、もう一度渋谷を目指してもらうために。

◇第1章 坂の上のシンデレラ城
◇第2章 個性競った「レコード村」
◇第3章 109が一番、だけど
◇第4章 ビル群、脱「失われた10年」


第1章 坂の上のシンデレラ城

◎パルコ、ファッション・文化を発信
 「角を曲がると、坂の上にお城がある」
 ファッションビルのパルコを創業から牽引(けんいん)した元会長の増田通二(2007年死去)は、渋谷パルコをそう例えた。
 渋谷駅のハチ公口を出ても建物は見えない。スクランブル交差点を渡り、マルイシティ前を左に折れた坂の上。500メートルほど歩いてたどりつく。入り口は自動ではない。扉を力を込めて押し開ける。増田は言った。
 「シンデレラが、自らの手で運命の扉を開ける。それが重要なんだ」


 東急百貨店東横店、東急文化会館(現渋谷ヒカリエ)が駅前にある渋谷で、当時の西武グループは後発。パルコのオープンは西武百貨店開店の5年後の1973(昭和48)年だった。
 「駅から離れた所まで歩いて来てもらう。その過程をいわば演劇の花道として増田さんは演出した」。多摩美術大教授の萩原朔美(67)は振り返る。
 萩原は寺山修司主宰の劇団「天井桟敷」の演出家を務めた。劇場があった渋谷が活動の場だった。渋谷区役所につながる区役所通りが「公園通り」に変わり、裏の狭い坂道は「スペイン坂」に。広がった歩道沿いに赤い電話ボックスやベンチが置かれ、次々に新しい店ができた。「ファッションが街のたたずまいを変えていった」


 パルコ開店時、萩原は20代。同世代が読む雑誌を作りたくて、増田に企画を持ち込んだ。
 渋谷のタウン誌として74年に創刊した「ビックリハウス」は読者投稿とパロディーで人気を博す。公募による「日本パロディ広告展」をパルコで開いた。若い才能の作品を見に、若者が列をなした。
 81年入社の宣伝部担当執行役、井上肇(55)はビックリハウスを愛読する慶応大生だった。買い物、飲食、観劇。消費の中心が渋谷だった。「バブルに向かってどんどんという時期。企業は若者・女性を消費者のリーダーと捉えていた。情報発信の拠点はもう銀座ではなかった」。新車の展示や試食イベント……。公園通りに面したパルコの広場も宣伝の場となった。
 寺山修司に魅せられた笹目浩之(51)は83年、パルコの西武劇場(現パルコ劇場)での寺山追悼公演のポスター貼りを任された縁で、ポスター貼りの専門会社を渋谷で起業した。
 86年のシネマライズや89年のBunkamuraなどミニシアターや劇場が次々でき、右肩上がりで仕事が増えた。当初800万円台と想定した売り上げが2千万円になった。
 ポスターを貼らせてもらうのは主に飲食店。チラシを置くのみを含め、渋谷だけで50〜60店。多くが個人経営だったが、異変が起き始めた。もともと渋谷は店の入れ替わりが激しいが、90年代に入った頃からチェーン店が目立ち始め、特に中心地の渋谷センター街からはほぼ姿を消した。
 かつて宇田川町にあったラーメン店「金龍菜館」の店主は快く、掲示板や壁を使わせてくれた。「人間的なつきあいをしてきた店ばかり。寂しい」
 いまはまだ、新たな店を開拓できている。このまま街の画一化が進めば、厳しくなると覚悟する。
 14年10月下旬、渋谷パルコで「シブカル祭(まつり)」があった。売り上げ減が続いた3年前に始めた催事だ。若手女性クリエーター約100組の表現で館内を演出した。新しい文化の発信という原点に立ち返った・・・

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