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朝日新聞社

満州開拓とは何だったのか 山形から渡った人たち

初出:2015年1月1日〜1月9日
WEB新書発売:2015年2月19日
朝日新聞

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 中国東北部の旧満州には、山形からだけでも約1万7000人が渡ったとされる。多くの人の命が奪われ、今では侵略的行為だったと非難もされるが、当時の人々を遠い地に駆り立てたものは本当のところ何だったのだろう。「日本農民として立ちたいと決心しましたが、耕す土地がありません」。当時の日本の農村では農家の次男や三男が耕す土地はなく、他に仕事を見つけるしかなかった。満州開拓が進んでいたのはそんな時代でもあった。

◇序章 国策の開拓、希望信じ 
◇第1章 20町歩の土地を夢見て
◇第2章 農村のため「狭い出口へ」
◇第3章 村に補助金、「分村」推進
◇第4章 移民、地域あげて支える 
◇第5章 満14歳、卒業後に義勇軍へ
◇第6章 教え子と一家で大陸へ
◇第7章 大陸花嫁、女性が宣伝役


序章 国策の開拓、希望信じ

◎封印解き筆「『侵略』哀しい」
 「話を聞くことも、自分で話すことも、つらい思いである。まして筆にすることはかなしい」(1979年「後藤嘉一著作集第四巻 やまがた郷土史散歩」より)

 それでも、胸の中にくすぶる思いが、再びペンを取らせた。

 「日本農民の悲願と熱情・希望と理想とは決して無意味なものでなかった」(同)

 後藤さんは1905(明治38)年4月29日、山辺町の小地主の元に生まれた。12人兄弟の長男で、父は画家の華平(嘉兵衛)さん、弟は芥川賞作家の紀一さんという文芸一家。22(大正11)年に上山農学校を首席で卒業後、自作農を志したが田畑や家が人手に渡ったため、18歳で「夕刊新山形」に入社し、新聞記者になった。
 「新山形」が休刊して独力で雑誌を発行していた31(昭和6)年、後援者の大郷村(現山形市)の角田(すみた)一郎退役陸軍中佐に呼び出された。中佐は自らが記した「満蒙経営大綱」を示し、当時は「不可能論」が強かった旧満州への農民移住の必要性を説いた。
 36年、「山形新聞」を発行していた山形自由新聞社の特派員として、県が実施した旧満州移民地視察に同行。その1カ月間の様子を紙面で連載した。その時に見た光景は、先祖が山形県に農業移民として入り、土を耕し郷土を築き上げた姿を思わせるものだった。

 「北満農業移民は東北人として先祖の事業を継承する宿命的な仕事であると、私は信じて居(お)ります」(37年「北満の我が移民を語る」より・・・

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