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朝日新聞社

「第2の基地県」神奈川を歩く 米軍と自衛隊の戦後70年

初出:2015年2月26日〜3月7日
WEB新書発売:2015年3月19日
朝日新聞

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 横須賀基地、厚木基地、キャンプ座間……神奈川県内にある軍事施設の歴史の始まりは、明治時代まで遡らなければならない。軍港、軍都、そして本土決戦を想定した最前線。首都防衛の拠点としての系譜は戦後も脈々と受け継がれ、いまも米軍や自衛隊の重要施設が多く立地する。その重要性が増せば増すほど、自治体や住民らとの軋轢も数多く起きてきた。沖縄に次ぐ「第2の基地県」で何が起き、そしてどこへ向かうのか。その源流を訪ねた。

◇第1章 敵の防波堤、若き日の覚悟
◇第2章 横須賀の「デッカーさん」
◇第3章 戦車闘争、大群衆のうねり
◇第4章 軍港観光、息を吹き返す
◇第5章 生まれ育った村、飛行場に
◇第6章 日の丸の翼、無残な墓場
◇第7章 金網の向こう、眠る士官学校の記憶


第1章 敵の防波堤、若き日の覚悟

◎本土決戦に備え悲壮な訓練
 2015年2月中旬、東京の弁護士、江口保夫さん(90)は江の島(藤沢市)にいた。
 70年前の夏、日本陸軍の兵士だった江口さんは、ここで終戦を迎えた。その足跡をたどるためだ。
 江の島の鳥居をくぐり、左手に進むと、ひっそりとたたずむ児玉神社が見えてくる。日露戦争で活躍した明治時代の軍人、児玉源太郎をまつっている。
 「懐かしいな。戦争中、私はこの神社の社務所で寝泊まりしたんです」。そう言って手を合わせた。


 参道に並ぶ土産物屋や食堂にも分宿していた。当時は江の島にかかる橋はまだ丸太で、橋の上に並ばされて点呼を受けた。
 「ここは本当に大変な場所でした。遊びに行くような所ではなかったのです」
 太平洋戦争末期、江の島には「護東(ごとう)部隊」(正式名は第140師団)と呼ばれた陸軍の精鋭部隊がいた。
 敗戦が色濃くなる中、軍の最高機関だった大本営は、米軍が千葉の九十九里浜や相模湾から上陸してくると予測した。このため、本土決戦に備え、首都防衛の部隊を次々と編成。護東部隊もその一つだった。
     *
 江口さんは1944(昭和19)年、中央大学の学生だったときに学徒動員で徴兵された。19歳の時だ。
 最初は天皇を守る「近衛師団」の連隊に入った。兵舎から銃を担いで、代々木練兵場(現在の代々木公園)に通った。45年初め、護東部隊に配属された。
 最初に向かったのは厚木飛行場。近くの農家に分宿した。自軍に有利な地形をつくる「陣地づくり」と、戦車攻撃の訓練に明け暮れた。
 ただ、訓練と言っても粗末なものだった。米軍の戦車に見立てた木製の張りぼてを人力で押す。1人が入れるほどの穴を掘ってそこに隠れ、戦車が近づいてきたところで、竹ざおの先にくくりつけた爆弾を無限軌道に差す、といったものだ。江口さんたちはその穴を「たこつぼ」と呼んだ。
 「ほとんど特攻隊です。上官は『すぐに穴に戻れば助かる』と言っていたけど、だれもそんなことを信じていませんでした」
 45年4月、米軍は沖縄に上陸する。部隊は海岸線に張り付けられ、江口さんも江の島行きを命じられた。
 江の島の切り立った崖の中腹などには、所々穴が開いている。当時、江口さんたちが火薬を爆発させて空けたものだ。その穴に隠れ、相模湾から上陸した米軍を背後から撃つ。それが与えられた任務だった。


 「おまえら、天皇の間近にいる。死守せよ」
 上官はことあるごとにそんな檄(げき)を飛ばした。
 「おれたちが突破されたら、日本はおしまいだ」
 江口さんも仲間とこんな会話を交わし、互いに鼓舞し、悲壮感を募らせた。
 「敵前逃亡は銃殺刑だと言われ、逃げることもできず、かといって敵に向かっていけば確実に死ぬ。みんなそう考えていました・・・

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