【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

経済・雇用
朝日新聞社

成長こそが生きがいだった 所得倍増からバブルまで駆け抜けた奇跡の時代

初出:2010年2月20日、7月24日、2013年6月8日
WEB新書発売:2015年4月23日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 国民所得倍増計画。1960年7月に就任した池田勇人首相が打ち出した、国民総生産(GNP)を10年以内に倍増する、という計画だ。前任の岸信介内閣が、安保改定という「政治」に揺れたのに対し、「経済」の時代の幕開けを告げるできごとだった。フタを開けて見れば、予定した実質成長率7・8%に対し、実績は10%で、国民所得は倍以上になった。その後30年近くも続く「成長の時代」の幕開けである――。60年代末の「GNP世界第二位」、80年代末の「バブル経済」まで、日本が一番元気だった時代の軌跡を振り返る。

◇〈1935年〉闘病が生んだ成長戦略/所得倍増計画決定
◇〈1943年〉急激な成長、足元にきしみ/GNP「世界2位」
◇〈1962年〉バブルの序章とは知らずに/東証株価初の2万円台


〈1935年〉闘病が生んだ成長戦略/所得倍増計画決定

 国民の所得を10年以内に倍増させる。所得が増えるどころか減る時代からすると、夢のような成長戦略だ。
 自民党の池田勇人(1899〜1965)が所得倍増論を打ち出した当時も、経済成長への悲観論が渦巻いていた。それでも、大蔵省出身のエコノミスト、下村治(1910〜89)は、「日本経済は勃興(ぼっこう)期にある」として、池田の所得倍増論を理論的に支えた。


 池田と下村が楽観的ともいえる成長戦略を打ち出せたのはなぜか。2人が死と隣り合わせの病を克服したことと、無関係ではない。
 池田は宇都宮税務署長だった昭和の初め、全身に水ぶくれができる皮膚病「天疱瘡(てんぽうそう)」にかかった。妻が看病中に亡くなり、長引く闘病で大蔵省退職に追い込まれる。広島県竹原市吉名町(旧吉名村)の生家で失意のどん底にいたのを懸命の看病で支えたのが、後に結婚することになる同郷で遠い親類にあたる大貫満枝さん(故人)だった。
 満枝さんの甥(おい)で竹原市在住の医師、大貫仁士(ひとし)さん(58)は満枝さんから当時の心情を打ち明けられた。池田と2人で地獄からはい上がってきたのだ、と。大貫さんは話す。「治療法もなく奇病とされた時代。快復は奇跡でした」
 「山より大きな猪(しし)は出ない」が池田の口癖だった。「難病を克服したからこそ物事を楽観できる人間になれたのだと思います」と大貫さんは言う。
 下村の病は結核だった。徐々に衰弱していったのは昭和23年ごろ。下村の長男で法政大学名誉教授の下村恭民(やすたみ)さん(70)は「あの時は、本人も『もうだめだ』と思ったようです」と話す。それでも下村は病床で論文を執筆する。闘病は結果的に、下村を官僚ポストの階段ではなくエコノミストへの道を進ませた。
 逆境を乗り越えたことは、下村の経済理論に確信を与えた。今も父の論文を読み直す恭民さんは話す。「父の経済理論の核心は、統制経済ではなく自由経済、経済成長というより国民生活の向上でした」。下村が大切にしたのは人間の力だったのだ。
 池田が創設した自民党の派閥「宏池会」の事務局長を長らく務めた木村貢さん(84)。池田の秘書になったのは昭和27年のことだった。
 まだ戦争の焼け跡を残す東京を走る車中、池田が繰り返した言葉を木村さんは覚えている。「日本人は戦争には負けたが、今度は経済で立ち上がるんだ」
 昭和35年7月、池田内閣発足。その年の暮れに所得倍増計画が閣議決定されると、民間企業の設備投資を原動力に経済は成長し、国民の生活水準は格段に上がっていった。
 昭和39年9月、池田は東京・築地の国立がんセンターに入院する。病院の屋上で木村さんと2人きりになった。
 池田は、東京オリンピックに向けて整備が進む首都高速道路や銀座の街明かりを眺めながらつぶやいた。
 「世の中、ここまで良くなってよかった」。そして続けた。「しかし、後が怖いんだよ・・・

このページのトップに戻る