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文化・芸能
朝日新聞社

真田家武将3代の足跡をたどる 信州社寺巡礼

初出:2015年5月5日〜5月10日
WEB新書発売:2015年5月21日
朝日新聞

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 数ある戦国武将の中でも知名度の高い真田家。真田昌幸は関ケ原で、真田信繁(幸村)は大阪の陣で徳川家康に弓を引いた知将・勇将と伝えられる。来年のNHK大河ドラマの主人公は信繁(幸村)だ。その一方で、信繁の兄信之は、松代藩初代藩主として徳川幕府に忠誠を示し、真田家を存続させた。今でも長野市や上田市に残るゆかりの社寺をめぐり、真田家の足跡をたどる。

◇第1章 【大鋒寺】信之と右近、深い絆
◇第2章 【典厩寺】どうして幸村の墓が
◇第3章 【長国寺】一族の絆結ぶ御霊屋
◇第4章 【長谷寺】真田氏に二つの系統
◇第5章 【真田神社】城跡と郊外、二つの神社


第1章 【大鋒寺】信之と右近、深い絆

◎8代・幸貫が感銘、墓も隣に
 2015年4月下旬の土曜日。快晴だが、風の強い日だった。火をつけるのに苦労した線香の束を墓前に供え、鈴木英昭さん(52)は静かに手を合わせた。続いて別の墓にも同様に線香を供え、手を合わせた。その間、すぐ後ろで寺の代表冨沢秀樹さんが唱えるお経が、静かな境内に響き渡った。
 鈴木さんは松代藩初代藩主真田信之(1566〜1658)に仕えた鈴木右近(1574〜1658)から数えて13代目にあたる。鈴木さんが手を合わせた最初の墓が信之の、後の墓が右近のものだ。


 右近は、信之が93歳で没すると、その2日後に腹を切って後を追った。84歳だったという。殉死は生前の信之の許しも、藩の許可も得ていた。だから800石の鈴木家は存続し、2人の養子にそれぞれ500石と300石ずつ引き継がれた。鈴木さんは500石の本家の末裔(まつえい)で、今も長野市松代町に住み、県庁に勤めている。
 真田宝物館で鈴木右近の子孫が今も松代に住んでいると聞き、訪ねたのは墓参の数日前のことだ。
 「年はとりたくないものだ。死出の山はこれくらいではあるまい」。「どんなにけわしくとも、右近がお手を引きましょう」
 「信之公が晩年、右近に手を引かれ、城の築山を登った時の2人の会話です。小学生の頃、父からよく聞かされました」。そう話す鈴木さんだが、同じ松代町内の大鋒寺(だいほうじ)にある2人の墓には幼少期に行ったきりだという。それで鈴木さんを誘って寺を訪ねたのだ。
 大鋒寺は信之の隠居地に、遺言により建てられた。松代城から5、6キロ離れ、当時は住む人も少ない寂しい地だったらしい。
 父昌幸は関ケ原の合戦の折りに、弟信繁(幸村)は大坂の陣でも徳川に弓を引いた。そのため幕府からは疑いの目で見られ続けながら、泣き言一つ言わず、父と弟の助命に奔走し、真田家も守り抜いたのが信之の後半生だ。90歳を過ぎてからも家督相続をめぐるお家騒動を静めなければならなかった。その波乱の生涯の最後は、静かな環境に身を置きたいと思ったのではないか。そんな気がした。
 冨沢さんに尋ねると、「それもあるかもしれませんが、ここがお城から見て鬼門の丑寅(うしとら)の方角だからでしょう。鬼門に身を置き、災いから真田家を守るためだったのだと思います・・・

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