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政治・国際
朝日新聞社

沖縄はなぜ「納得できない」のか 本土が見ない「沖縄のこころ」

初出:2015年6月7日〜6月9日
WEB新書発売:2015年6月18日
朝日新聞

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 沖縄のイメージは、時代や国際情勢によって常に揺れ動いてきた。県民の4人に1人がなくなったと言われる沖縄戦、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍の強制的な土地の接収、その後も残る米軍基地といった「苦しめられる島」のイメージと、リゾートに代表される、「癒される観光地」のイメージだ。しかし、そのどちらも、本土からの、「都合よく沖縄を見る」まなざしによってあまりにも多く左右されてこなかったろうか。終戦から現在に至る沖縄と本土の関係をたどり、両者の感情の隔たりのルーツをさぐる。

◇第1章 基地の傷痕、私の町も
◇第2章 悲劇に代えて「青い海」
◇第3章 米軍撤退「日本が望まず」


第1章 基地の傷痕、私の町も

 太平洋に面した砂浜は鉄条網で囲まれていた。米軍車両が住宅地を行き交う。
 小学5年の少女は昼すぎ、自宅で突然、地震のような揺れを感じた。障子を開けると、米軍の大きな四輪駆動車が目の前に迫り、止まっていた。床にガラスが散乱していた。かたわらに、若い米兵が一人、立ちすくんでいた。
 母が軍用車とガラス戸に挟まれ、気を失っている。5歳下の弟の緑色のセーターが車の下にみえた。頸動脈(けいどうみゃく)が切れ、即死だった。当時、6歳。警察の捜査は本格化せず、米兵は日本で裁かれなかった。
 地元では、この3年3カ月前にも、児童が米軍車両にひかれて亡くなった。8カ月前には、射撃訓練の的に使う無人飛行機が民家に落ちて夫婦が死亡する事故が起きたばかり。
 戦争に敗れた日本がサンフランシスコ講和条約を結んで独立を果たす直前の1952年3月26日、千葉県豊海町(現・九十九里町)での話だ。48年に海岸と民有地計約90ヘクタールが接収され、米軍の「キャンプ片貝」ができていた。
 米軍は戦後、全国のあちこちに基地をつくった。50年代には、少なくとも33都道府県に及んだ。その広さは琵琶湖二つ分に相当する約13万ヘクタール。いまの在沖縄米軍基地の約6倍に上る。
 全国に「沖縄」があった。


 光文社(東京)が53年に出版した「基地の子」は、24都道府県の子どもが寄せた作文や詩約1300点から約200点を編んだ。
 《親子四人のアメリカ人がきました。やさしくて、クリスマスには、いろいろのプレゼントをもらいました》(福岡 小6男子)
 《町では、パンパン(=米兵相手の街娼〈がいしょう〉)が多くなってかないません。近じょののり子ちゃん(四歳)が、パンパンのまねをします》(奈良 小2女子)
 《きょうもまた、しゃげきのれんしゅうがはじまりました。アメリカの兵隊さんがた、どこかえって、れんしゅうしてくれねえがのう》(山形 小5女子)
 九十九里の少女の「小さい弟の死」も載った。
 《お母さんは、毎日毎日泣いて、赤ちゃんに一番だいじなオチチが、出なくなってしまいました。ほんとうにかなしくて、二年生の妹と二人で、赤ちゃんを子守しながら、何回泣いたことでしょう》
 少女は、小沢君代(74)。地元の幼稚園長を退き、夫や子、孫らと九十九里町に暮らす。「戦争に負けるということは、基地があるということは、こんなにも苦しく、悲しいのか・・・

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