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朝日新聞社

お前はそれでも日本人か 米軍元通訳の被爆者、70年の引き裂かれた思い

初出:2015年5月10日〜6月5日
WEB新書発売:2015年6月18日
朝日新聞

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 その日、滞在先の小屋から閃光とキノコ雲を見た川内豊さん(1930年生まれ)は、何が起きたのかわからなかった。長崎市から運ばれてきたけが人は、破れた服、黒く焦げた頭髪、肩や腕から焼けただれた皮膚が垂れ下がり、赤黒く乾いた中からさらに鮮血がしたたっていた。男女の区別もつかなかった――。その後、米軍基地の作業員、そして通訳として働いた川内さんの胸の中には、学業の資金まで出して支援してくれた米軍属への感謝の思いと、日本の被爆者としての割り切れない思いが、つねに併存してきた。米国を憎めない。だが、「核は絶対にこの世にあってはいかん」。かつての「敵」のもとで働いた元通訳のパーソナル・ヒストリー。

◇第1章 長崎原爆に遭遇する
◇第2章 人間的だった米軍
◇第3章 核は絶対この世にあってはいかん


第1章 長崎原爆に遭遇する

◎駅で見た被害者に驚き
 1945年8月10日、国鉄川棚駅(川棚町)。駅前の小さな広場に、大勢の大人たちが集まっていた。警防団や婦人会の大人たち。その雑踏の後ろに、川内豊(かわちゆたか)さん(85)はまぎれていた。
 町から何人もの出征兵士を送り出してきた広場だ。だが、その日は様子が違っていた。日の丸の小旗はなく、いつもより緊張感が漂っているようだった。
 「長崎から被害者が運ばれてくる」
 前夜、警防団の団員たちが父に知らせに来た。その会話を聞き、15歳の川内さんは好奇心を抑えきれなくなった。「新型爆弾の被害者ってどんなのだ」。駅は家から歩いて10分ほど。毎日、通学に使っていた。朝になると早速駆けつけた。
 昼前、大村方面から列車が着いた。機関車に、客車と貨車が長く連結されていた。「被害者」は貨車から降りてきた。息をのんだ。人間とは思えない人間がそこにいた。まるで、幽霊のようだった。


◎遠くに閃光、そして爆音
 川棚駅で「新型爆弾」の被害者を見る前の日、川内豊さんは川棚町と佐世保市の境にある白岳の中腹にいた。空襲から家財を避難させるために父が建てた小さな小屋があった。
 当時、川内さんは旧制大村中学校(現在の大村高校)の2年生。大村市にあった海軍の第21航空廠(こうくうしょう)に勤労動員されていた。東洋一とうたわれた広大な航空廠は前年の空襲で破壊され、川内さんは萱瀬地区に疎開した分工場に配置された。作っていたのは飛行機部品。長さ1メートルほどの金属パイプをたたきながら、中にぎっしりと砂を詰める作業だった。
 監督の上級生はすぐに叱った。何度も殴られたり、蹴られたりした。ついに作業に嫌気がさし、8月9日はさぼっていた。
 小屋からは大村湾が一望できた。昼前ごろ「腹が減ったな」と思った瞬間だった。湾の向こうに遠く、雷のような閃光(せんこう)が走った。しばらく遅れて「どろろーん」と爆音が聞こえた。白い雲がむくむくと立ち上がるのがはっきりと見えた。キノコのような形だった・・・

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