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政治・国際
朝日新聞社

アメリカ人に原爆の話をしてみたら 「なぜ落とした?」米国を愛する被爆者の問い

初出:2015年6月6日〜6月21日
WEB新書発売:2015年7月2日
朝日新聞

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 長崎原爆の爆心地から約4キロの地点で被曝した前田稔さんは、原爆の研究製造を進めた「マンハッタン計画」の調査レポートをいまもこつこつと書きなおしている。終戦後、英語教師となり、米国のオレゴン大大学院に留学した前田さんは、マンハッタン計画に参画した同大学の元学長の「長崎への原爆投下は不要だった」という言葉に出合う。愛する米国が、なぜ必要もなく原爆を投下したのか。毎年米国から訪れる研修旅行の高校生らに被爆体験を語る一方で、心中から消えない疑問――。他国、他民族への無知や偏見が原爆投下につながった、という前田さんの、一生をかけた「問い」を追いかけたライフ・ストーリー。

◇第1章 この世の終わりを見た
◇第2章 米国に殺される
◇第3章 米国留学と被爆体験


第1章 この世の終わりを見た

◎愛する米国、なぜ原爆を
 米国が原爆の研究・製造を進めた「マンハッタン計画」。長崎市香焼町の前田稔(まえだみのる)さん(80)は被爆70年の2015年、10年前にまとめた計画に関するリポートを書き直している。
 計画に関心を持ったのは、高校の英語教諭を辞めて米国の大学院に留学した25年ほど前。米国では自身が被爆者だと周囲に語っていなかったが、計画に携わった研究者の論文を読み、原爆投下を負の歴史として語り継いでいかなければと思うようになった。
 爆心地から約4キロの長崎市東立神町で被爆し、終戦後は米軍の上陸におびえ、一時長崎を離れた。それほど米国は恐ろしかった。しかし、進駐してきた米兵たちは優しくて明るく、敵意や恐怖はあっという間に消えた。54歳で留学のため初めて踏んだ米国の地でも米国人は親切で、強い博愛精神に触れた。そんな米国が、原爆投下という歴史的に悲惨な結果を引き起こした。なぜそんなことができたのか。愛する国だからこそ探り続けてきた。


◎造船の町で生まれ育つ
 前田稔さんは三菱造船所立神工場で船室の家具などを作る木工部門で働く父鹿造(しかぞう)さんと、母トメさんの7番目の子どもとして生まれた。後に妹ができた。16歳差の長姉や15歳差の長兄とは一緒に暮らした記憶はない。
 家は造船所のおひざ元にあり、近所の家はほとんどが造船所に関係していた。小料理屋や仕立屋、棺おけ屋、アイスキャンディー工場までなんでもあった。鉄をたたいて曲げたり、鉄板と鉄板をびょうで打ち付けたりする音が一日中あふれ、巨大な鍛冶(かじ)屋の中に暮らしているようだったという。
 戦争が始まり、造船所の船台が巨大な網状のカーテンで覆われたことがある。鹿造さんに「空母なの? 潜水艦なの?」と聞いても答えてくれず、「秘密なんだ」と思った記憶がある。しかし、市営交通船の船着き場から見上げると網の中の様子がわかり、近所の人たちは巨大な軍艦が造られているのを知っていた。それは、1942年に完成した当時世界最大級の戦艦「武蔵」だった・・・

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