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朝日新聞社

父ちゃん私を殺さないで 70年前の沖縄で何が起きたか

初出:2015年6月19日〜6月23日
WEB新書発売:2015年7月9日
朝日新聞

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 米軍が渡嘉敷島に上陸してきた翌日、1945年3月28日の夜のこと。渡嘉敷島の住民たちは日本軍の陣地に集まった。そこで「集団自決」が始まった。当時9歳の田頭澄子さん(80)は、幼なじみの「愛ちゃん」の家族のことが、今も忘れられない。優しかった医師の父親がナタを振り上げ、妻を、そして子供を、次々に手にかけていく。「父ちゃん、殺さないで」と泣き叫ぶ「愛ちゃん」の姿が、今でも田頭さんの脳裏を離れない――。70年の時が過ぎても、今も沖縄の人々を苦しめる「戦世(いくさよ)」の記憶。生き残った人々はいま、何を思い、何を伝えようとしているのか。朝日新聞社が実施した沖縄戦体験者のアンケート回答者などに取材した。

◇第1章 弟との記憶、閉ざし続けた/「生きた証し残すため」今筆をとる
◇第2章 記憶して、集団自決の狂気/「父ちゃん、殺さないで」今も耳に
◇第3章 「お国のため」の果ての惨めさ/壕の闇、のたうつ兵士 命の軽さ
◇第4章 鉄の暴風、心も食い殺された/「母の再期に目を背けた」
◇第5章 マラリア悲劇、続いた「戦争」/「家族ほとんど亡くした」


第1章 弟との記憶、閉ざし続けた/「生きた証し残すため」今筆をとる

 こちらをじっと見つめる幼い瞳。重い記憶がときに鮮明によみがえる。
 石川仁栄(じんえい)さん(80)=沖縄県浦添市=にとって、70年前の地上戦は、まだ終わっていない。
    ◇
 まるで、何十、何百もの落雷の中にいるようだった。米軍の猛烈な砲撃で身動きがとれない。1945年6月。祖母や母、兄、妹、弟らと、那覇市の北隣、浦添市から南へ逃げた。
 沖縄本島の南端、糸満市の家畜小屋に飛び込んだときのことだ。隅でひざを抱えて座った。目の前で、弟が背をぴったり寄せて同じように縮こまっている。
 その時、何かが右肩をかすめ、抱えていた右ひざの肉を削った。一瞬の出来事。痛いのか、熱いのかもわからない。
 気づいたときには、松林の中に寝かされ、砲撃はやんでいた。すぐ隣に横たわる弟。その腹から血がにじみ、呼吸に合わせて「ピュー」と空気が漏れる音がした。
 自分を傷つけた砲弾の破片は、そのまま弟の右の脇腹をえぐり取っていた。
 まだ3歳。石川さんが子守役で、いつも一緒だった。友達と「兵隊ごっこ」をするとき、いつも後ろをくっついてきた。コマを回すと喜んでくれた。
 家を追われた4月以降、ガマ(自然洞窟)に隠れている時も手を離さず、夜道を逃げるときは背中にしがみついてきた。
 弟はただ、大きな瞳でぱちぱちとまばたきしていた。泣きもせず、声も出さない。ただじっと、悲しそうにこちらを見つめていた。
 それが覚えている弟の最後の姿。高熱にうなされ、あとの記憶はあいまいだ。ひざ枕をしてくれていた叔母は砲撃で頭が吹き飛ばされた。1歳に満たない妹は栄養失調で亡くなった。
    ◇
 戦後、目の前の生活を必死に生きた。高校を卒業し、浦添村(現・浦添市)の職員となった。本土復帰、リゾート開発……。沖縄の復興を支えていると誇りに感じた。死体だらけだった激戦地のことはほとんど思い出さなかった。
 しかし、50歳を過ぎた頃から、ふと、戦争のことが頭をよぎるようになった。破片が少しずれていれば、自分が死に、弟は生きたかもしれない。なぜ、生と死に分けられなければならなかったのか。
 遺骨も遺品もない。ただ、95年に完成した「平和の礎(いしじ)」に弟の名が刻まれていることは知っていた。いつか行かないと。でも、行けば感情があふれ出し、耐えられないのではないか、とためらった。
 2014年6月23日の慰霊の日。友人に誘われ、迷いを抱えたまま初めてその地に立った。太平洋を望む平和祈念公園。扇状に並んだ黒い石板の、海に近い辺りに「弟」がいた・・・

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