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朝日新聞社

知られざる英雄 韓国女子教育の母・淵澤能恵

初出:朝日新聞2015年6月25日〜7月2日
WEB新書発売:2015年7月23日
朝日新聞

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 1850年、現在の岩手県花巻市で生まれた淵澤能恵は、3年間の米国留学後、同志社女学校などを経て、1905年、視察団に加わって韓国に渡る。当時の韓国は、1904年の日韓協約により、事実上の占領下。日本政府は、韓国の同化政策を進めていた。しかし能恵は日本よりはるかに男性中心の韓国社会の中で、自立の機会を奪われている女性を助けようと奔走、「明新女学校」設立に力を貸す。日本の学習院をモデルとした同女学校は、1909年に淑明高等女学校と改名、1948年には大学設立にこぎつけ、韓国有数の名門校「淑明女子大学校」となった――激動の近代日韓交流史の中で、韓国女子教育に半生を捧げた淵澤能恵の足跡を追い、日韓友好の道筋を探るルポ。

◇第1章 韓国女子支えた生涯
◇第2章 「学ぶ場」作りに奔走
◇第3章 「接し方」徐々に浸透
◇第4章 生い立ち、慈愛の源か
◇第5章 好感、個人的には残る
◇第6章 伝えたい先人の足跡


第1章 韓国女子支えた生涯

 講演を頼まれた先でまず、村上淑子さん(85)は「淵澤能恵(ふちざわのえ)さんは何をやった人か知っていますか」と聴衆に聞く。知る人は少ない。「韓国女子教育の礎を築いた人です。幕末に今の花巻市で生まれたんです」と説明を始める。不幸な歴史が続いた両国が、国交を正常化して22日で50年。戦後70年を迎え、花巻市石鳥谷町の村上さんが会長を務める「淵澤能恵を顕彰する会」も精力的に活動している。


 能恵は1850(嘉永3)年、稗貫郡八重畑村(現花巻市石鳥谷町)で生まれた。米国のペリー提督が4隻の黒船を率い、浦賀沖に姿を現す3年前だ。
 身分の低い南部藩士の次女で、生後9カ月で養女に出された。幼い頃から塾に通うほど勉強好きで、23歳で結婚した。が、向学心に燃える娘は古い家に合わず、間もなく離婚。岩手県釜石市で事業をする兄を頼って移住した。そこで鉱山技師をしていた米国人宅で住み込みのメイドになった。
 その一家が帰国する時、福沢諭吉の「西洋事情」を読み、西洋に夢を膨らませていた能恵は同行した。1879(明治12)年、29歳の時だった。
 渡米後、技師宅では子守や家事に追われ、勉強する時間をもらえなかった。別の働き口を探し、英語の勉強ができるその家に移り住み、キリスト教の洗礼を受けた。
 日本に残した年老いた養母は、独りになっていた。寂しさを訴える手紙が頻繁に届いた。ともかく一度帰国しよう。また来ればいい。そう思って3年後、船に乗った。
 戻ってきたふるさとでは、新しいものに触れることができず、勉強する環境もなかった。その年のうちに、創立間もない京都の同志社女学校に入学し、新島襄の薫陶を受けた。だが、学資が続かなかったようで、3年3カ月で中退した。
 それから東京や福岡、熊本などの六つの女学校で英語などを教えた。1900年、東京で文房具店を開いた。近くには熊本時代の学生らが設立した塾があり、店は能恵を慕う学生たちであふれ、集会場のようになった。
 「ここまでの波乱の生涯が、能恵が韓国女子教育に一身を捧げた生涯を送る源となったのです」と村上さんは言う。
 能恵が渡韓するのは、この5年後だ・・・

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知られざる英雄 韓国女子教育の母・淵澤能恵
216円(税込)

1850年、現在の岩手県花巻市で生まれた淵澤能恵は、3年間の米国留学後、同志社女学校などを経て、1905年、視察団に加わって韓国に渡る。当時の韓国は、1904年の日韓協約により、事実上の占領下。日本政府は、韓国の同化政策を進めていた。しかし能恵は日本よりはるかに男性中心の韓国社会の中で、自立の機会を奪われている女性を助けようと奔走、「明新女学校」設立に力を貸す。日本の学習院をモデルとした同女学校は、1909年に淑明高等女学校と改名、1948年には大学設立にこぎつけ、韓国有数の名門校「淑明女子大学校」となった――激動の近代日韓交流史の中で、韓国女子教育に半生を捧げた淵澤能恵の足跡を追い、日韓友好の道筋を探るルポ。[掲載]朝日新聞(2015年6月25日〜7月2日、5500字)

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