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政治・国際
朝日新聞社

満州引き揚げ者の運命 国策に翻弄された開拓者の思い

初出:2015年8月8日〜8月15日
WEB新書発売:2015年9月10日
朝日新聞

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 70年前、日本の敗戦によって中国東北部の「満州国」は崩壊した。彼の地に未来を夢見て渡った日本人開拓民は、ソ連参戦や敗戦後の混乱の中で、膨大な犠牲者を出したが、帰国後も故郷に帰らず、北海道や青森に移り住み、再び厳しい開拓に取り組んだ人も多かった。それはなぜなのか? 山形県出身の開拓者を訪ね、その足跡を追ってみた。

◇第1章 引き揚げ、再び開拓へ
◇第2章 厳しい原野、離農者も
◇第3章 締めくくり、決意の入植
◇第4章 シベリア帰りの末に
◇第5章 「野平」で大地と生きた
◇第6章 開拓魂で名産リンゴ
◇第7章 戦前の歴史継ぐ戦後開拓


第1章 引き揚げ、再び開拓へ

◎次男の自分、生活と誇り求め
 日本最北の地・宗谷岬から南西に約60キロの場所に、野鳥の飛来地として知られるサロベツ原野がある。


 北海道幌延町。天塩川の河口に近く、大小の沼が散在する湿地のそばで、富樫昭治さん(82)は、かつて牧場を経営していた。2014年暮れ、車を運転中に吹雪に巻き込まれ、低体温症になったことで体調を崩し、今は三男・義彦さん(58)の家に近い帯広市内の病院に入院している。
 昭治さんの人生は、「開拓者」の誇りを背負ったものだった。父親は、東田川郡大和村(現・庄内町)を舞台に、満州開拓にかける若きリーダーを描いた小説「庄内平野」(丸山義二著)のモデルとなった富樫直太郎さん。村人を率いて旧満州に渡った父親の後を追う形で1943(昭和18)年に大陸へ向かった。現地の国民学校初等科(現在の小学校)から高等科に進んだ45年、ソ連参戦後の混乱の中で、母親と2人の弟が亡くなり、抑留された父親とも別れる。
 「孤児」となったが、現地の中国人や難民収容所で出会った日本人の世話になりながら生き延び、47年に帰国した。
    ◇
 父・直太郎さんは戦前、大和村で一戸あたりの耕作面積を広げるため、集団で旧満州に移住する「分村」計画の推進役を務めた。現地では約80世帯、約300人の開拓団を組織していたが、「山形県史」によると、避難中の襲撃や収容所での病気、栄養失調などで70人以上が亡くなったとされる。
 満州開拓は頓挫したが、後継ぎでない次男、三男が耕す土地がなければ、将来への展望が開けない状況は、戦争が終わっても変わらなかった。
 昭治さんは山形に戻った時、直太郎さんから、こう尋ねられた。「国が次男、三男の対策をしないと農業は成り立たない。どうしたら良いと思うか」
 前年に帰国していた直太郎さんは、引き揚げ者の生活を再建させるため、北海道に新たな開拓地を見いだそうとしていた。次男である昭治さんは「土地は(北海道に)あるのだから自分が開拓者になる」と答えた。

   ◇
 昭治さんは札幌近郊で2年間農業を学び、18歳の時に直太郎さんのあっせんで、山形出身の若者と一緒にサロベツ原野に入った。
 しかし、割り当てられた土地は、雪解けで川があふれて沼のようになる場所だった・・・

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