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朝日新聞社

文句ばかり言っていたら認められた 「ミスター外資」と呼ばれた男の半生記

初出:2015年7月20日〜8月31日
WEB新書発売:2015年10月1日
朝日新聞

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 戦後70年を迎え、いま日本では、かつての敵国だった米国系も含め、外資系企業が当たり前のように受け入れられている。そこには、架け橋となった多くの先人の努力があった。その一人、元日本IBM会長、椎名武雄さん(86)は戦後間もないころに外資に身を投じた。彼が見た米国、日本の企業や社会の文化の違いとは何だったのか? 内向きになっていると言われる現役世代へのアドバイスは? 持ち前の「べらんめえ調」で語られる、すべての後輩たちへの伝言。

◇第1章 文句言って認められた
◇第2章 交渉、貫いた独自路線
◇第3章 通産省と厳しい交渉
◇第4章 いきなり「君の後継は?」
◇第5章 見返り求めない米国流
◇第6章 厳しい目でCEO監視


第1章 文句言って認められた

米で学び31歳工場長
 終戦から70回目の2015年8月15日、大切な節目の日がくる。若い人たちに、かつて日本中が焼け野原だったこと、食べ物も着る物もなかったことを知ってほしい。最低の生活があったことを知れば、もし経済成長がない時代が来ても、慌てない覚悟ができる。

◎電球つけ終戦実感
 《椎名さんは1929年、刃物で知られる岐阜県関市の金属洋食器業の家庭に生まれた。東京にある慶応義塾の普通部に入学、45年の敗戦を迎えたのは、中学3年の夏だった。》
 私もそうだけれど、あの当時の男の子は、多かれ少なかれ「愛国少年」だった。あの夏は、勤労動員で海軍の工場にいき、防空壕(ごう)を掘らされた。
 8月15日、集合がかかった。雑音でガーガーうるさいラジオから、天皇陛下の声が聞こえる。戦争に負けたことは分かった。その夜、灯火管制が終わったので電球をめいっぱいつけた。明るかった。戦争が終わったと実感したね。
 岐阜の実家にいったん帰り、東京に戻る列車にゆられた。ある駅で、日本の子どもたちと遊んでいる米兵が、楽しそうに笑っていた。ショックだった。米国人は鬼畜と教えられてきたけれど「ふつうの人間じゃねえか」と思ったんだ。NHKラジオの英会話で「カム・カム・エブリボディー」がはやるなど、ご禁制だった英語も耳に入ってきた。アメリカへの抵抗感が、消えていった。
 慶応大工学部を卒業したけど、実習でつかえる機械も満足になかったのに卒業と胸をはれるのか、と思った。そんなとき、オヤジの会社でつくっていた洋食器を米国で売っていたアルバート・ベアーさんという人が、米国留学の世話をしてくれることになった。すぐに、飛びついた。
 ビジネススクールに行きたい、と思った。でも、慶応の先生には「英語もできないのに無理だ」と言われた。そりゃそうだ。それなら日本人がいない米国の大学で英語を勉強してからでも遅くねえや、と思った。

◎オヤジの縁で採用
 《51年、貨物船でカナダ経由米国へ。留学先はペンシルベニア州のバックネル大。2千人ほどの学生のうち日本人は椎名さんだけ。工学部で学んだ。》
 戸惑うことも多かった。実験データを、数人で手分けして集めて、私はみんなに聞いた。「だれがリポートを書くんだ?」。みんな、きょとんとしていた。慶応のときは、秀才君のところにデータを集め、秀才君がリポートを書き、いっしょに実験した人の名を添えりゃあよかった。米国でも同じだ、と思ったからな。返事は、「おまえもだ」だった。別々にとったデータを集めると、リポートは全員が、複雑な計算をして書く。内容が正しくても間違っても自己責任、というわけ。米国流の一端を感じた。
 卒業が近くなると、もうビジネススクールはいいや、働こうと思った。すると、米軍から、入隊のお誘いの手紙が来た。すこし前までは敵だった国の学生でも、いまは米国の大学に通っているから関係ない、ということなんだろう。これも米国流だな・・・

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