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政治・国際
朝日新聞社

戦車第1連隊の司馬遼太郎 戦車嫌いの戦車兵の敗戦体験

初出:2015年9月16日〜9月18日
WEB新書発売:2015年10月8日
朝日新聞

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 栃木県佐野市の、古き良きたたずまいを残す町に、1945年5月、突然戦車や装甲車がやってきた。その中には、第5中隊第3小隊長福田定一少尉の姿があった。後の作家・司馬遼太郎である。本土決戦に備えて満州から運んだ戦車を、隠すのが任務だった。戦車を「絶体絶命の密室」と呼んで恐れた戦車兵は、敗戦をどう迎えたのか? 知られざるエピーソードで綴る。

◇第1章 戦争嫌いだった戦車兵
◇第2章 「何のための死 悩んだ」
◇第3章 歴史とは…問い続ける


第1章 戦争嫌いだった戦車兵

◎終戦迎えた地、作家の原点
 露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向(むこ)う通りをゆくひとの下駄(げた)の音がきこえるほど静かだった――。
 栃木県佐野市寺中町の植野地区公民館前に、「司馬遼太郎文学碑」がある。2009年に司馬遼太郎文学碑建立委員会によって建てられた。碑文は佐野の町並みを表した「私の関東地図」の一文である。
 古き良き日本のたたずまいを残す町に、1945年5月、突然戦車や装甲車が次々と入ってきた。その中に第5中隊第3小隊長福田定一少尉、後の司馬さんの姿もあった。


 当時、堀米国民学校6年生で、今は郷土史を研究する安蘇史談会会長の京谷博次さん(82)の実家の前に、日光例幣使街道が一直線に延びている。この由緒ある通りにも戦車が通った。「小さい僕なんか怖くてね。いつもガガガガッと戦車が通ると家の裏手に逃げていた」
 佐野市の元教員、早乙女務さん(81)も戦車の行き来を見ていた。当時は植野国民学校の6年生。「(米軍の)B29やグラマンが佐野の上空を飛び交い、怖いの何のって。戦車が来たら日本は負けないと信じていた」。佐野の人々は、中島飛行場太田製作所(群馬県)への爆撃のため、渡良瀬川沿いに飛んでいくB29の機影におののいた。戦車の存在を心強く思ったのも無理はない。
 少年たちの様々な思いとは別に、戦車兵だった司馬さんが戦車に対して暗然とした気持ちになっていたことは、「戦車・この憂鬱な乗り物」(『司馬遼太郎が考えたこと6』)などのエッセーでも知られている。
 終戦時の心境のひとつとして、「ともかくも戦車というこの絶体絶命の密室から解放されたという気落ちのようなもののほうがつよかった」(『歴史と視点』)とも記述している。
 そんな「絶体絶命の密室」を体験したのは藤田整形外科の元院長、藤田繁実さん(81)だ。植野国民学校5年生だった終戦翌日の8月16日、赤城神社に行くと戦車兵がいた・・・

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