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朝日新聞社

食卓の戦後70年 サラダが新しい料理のシンボル

初出:2015年8月13日〜8月19日
WEB新書発売:2015年10月22日
朝日新聞

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 いつもお腹をすかせていた終戦前後。1949年に野菜の統制が撤廃され、そのころから食糧事情は改善していった。洋食料理やパン食が広がったのは高度経済成長期。「新しい料理のシンボルは、急速に広がったサラダ」だった。トマトやレタスがまだポピュラーでなかった。80年代になると、家族そろって食卓を囲む風景が変わる。長時間労働、受験戦争、NHKで「孤食」の実態が放映され、大きな反響を呼んだ。そしていま――。食卓の移り変わりを、家族との思い出とともに見つめる。

◇第1章 いつも腹をすかせていた
◇第2章 まぶしかったオムライス
◇第3章 小2の私、弟と2人の夕食
◇第4章 食の安心、「本当」知りたい


第1章 いつも腹をすかせていた

◎米粒のばした母のおかゆ、釜の底抜け…
 「ああっ」という母の声。じゅっと水蒸気が上がった。母はしゃがんで泣き出した。秋田市の山田亮悦(りょうえつ)さん(81)は71年前の母の姿を、今もはっきりと覚えている。
 終戦前年のある夕方だった。秋田市内の平屋にあった土間のかまどで、父母ときょうだい3人の5人家族の夕飯のため、母はおかゆを作っていた。家の金属類は供出しており、陶製の釜だった。
 サツマイモばかり入ったごはんや、ふかしたジャガイモだけという夕食も多かった。おかゆも、申し訳程度の米粒をつぶしてのばしたものだったが、代用食ではないごはんはうれしくて、この日も今か今かと夕飯を待っていた。
 母は懸命にヘラで米をのばしていた。少しの米でちょっとでも腹持ちのよいおかゆを作ろうとしてくれていた。でも、あまりに強くヘラを押しつけたためか、釜の底が抜けてしまった。
 ものすごく恨みがましい目で、母のことを見たと思う。自分も泣きたい気分だった。その後、この時の話を母としたことはない。
 当時はいつも腹をすかせていた。終戦の時、真っ先に思った。「これで腹いっぱい食べられる」。でも、食糧不足はさらに深刻になった。
 着物を持ち、列車に乗って出かける母についていったことがある。母は見知らぬ農家を訪ね歩いた。着物と交換したヤミ米は子どもの自分が背負うリュックに入れた。帰りの列車では母と離れていた。警官に見つかるのではと、ビクビクしていた。「1人で行った母がヤミ米を取り上げられたこともあったから、私を連れて行ったんでしょう」
 高校を卒業後、公務員として働き始めた。1963年、浩子さん(79)と結婚し、3人の子どもを育てた。母は9年前、100歳の誕生日の前日に亡くなった。
 現在は浩子さんと2人暮らし。夕食はいつも浩子さんの手作りだ。晩酌をしながら、つい口に出る。「あー、おいし」。「だから手を抜けなくて」と浩子さんが笑った・・・

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