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文化・芸能
朝日新聞社

互いに欺かず争わず 日韓修好のプロ、雨森芳洲に学ぶ

初出:2015年9月9日〜9月17日
WEB新書発売:2015年10月22日
朝日新聞

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 対馬藩お抱えの儒者、雨森芳洲(1668〜1755)は、日韓関係が悪化するたびに顧みられる存在だ。朝鮮との外交や通商で「誠心」の姿勢を貫き、日韓双方から評価されている。雨森家の故郷、滋賀県長浜市と長崎県対馬市にある「芳洲会」を訪ねつつ、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交際する」ことを勧めた雨森芳洲の知恵の深さを感じてみる。

◇第1章 江戸時代、朝鮮と「誠信」で
◇第2章 板挟みに苦悩、「半白」の髪
◇第3章 反目の芽をつみ続ける
◇第4章 日韓学生通信使、学び合って
◇第5章 希望も痛みも記録に残す
◇第6章 東アジア、共存への窓


第1章 江戸時代、朝鮮と「誠信」で

 日韓関係が悪化すると顧みられる江戸時代の人物がいる。雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668〜1755)。対馬藩お抱えの儒者で、朝鮮との外交や通商で「誠信」の姿勢を貫いた。
 1728年に著した「交隣提醒(こうりんていせい)」でその意味を「互いに欺かず、争わず、真実をもって交際すること」と説いたこともよく引かれる。
 3世紀前にこんな先人がいたという史実自体に何か救われる思いがする。しかも、芳洲には私たちを何度も振り返らせる多面的な魅力がある。芳洲との縁(えにし)から日韓交流に携わる人々をたどり、彼の思想にも立ち入りたい。
 芳洲が両国の「懸け橋」として脚光を浴びたのはそう昔ではない。1990年、来日した韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)が宮中晩餐(ばんさん)会のスピーチで言及したのがきっかけだ。
 幾筋かの伏線はあった。とりわけ今日まで熱心な民間交流を続けるのが雨森家の故郷、滋賀県長浜市高月町の雨森地区だ。115戸、ざっと400人の集落で先人を顕彰する芳洲会の活動がある。
 旧家が並ぶ集落内を水路のせせらぎが巡り、コイがはね、水車が回る。路傍の花々の手入れも行き届き、まるで集落全体が箱庭のようだ。


 2015年は中東呼吸器症候群(MERS)で延期されたが、ほぼ毎夏、ソウルから高校生がホームステイに訪れ、浴衣姿で花火やスイカ割りに興じる。家族同然の歓待に「国は不仲でも人間は仲良くできる」という体験を刻む。
 交流の拠点は84年に完成した「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵(あん)」。館長の平井茂彦さん(70)は当初から活動のまとめ役を務める。
 「ホームステイや見学、研修に来る人たちを歓迎したい一心で環境整備と地域作りを続けてきました。芳洲精神に立ち返るため、その生涯を題材にミュージカルを創り、小学校の学芸会で上演し、地域こぞって鑑賞しています」
 そんな日々の営みを平井さんが地域に報じる週刊新聞は1500号を突破した。「韓国で日本を悪く言う人がいても、実際の日本は良かったと思う人が増えてほしい」
 芳洲庵は、京大名誉教授の上田正昭さん(88)が滋賀県に掛け合って実現した。新井白石の研究の傍ら芳洲に興味を持ち、68年夏に雨森地区の土蔵で「交隣提醒」を読んで感激したのが発端だ。
 何よりその「歴史認識」に驚いた。芳洲の時代は豊臣秀吉の侵略が朝鮮に恨みを残す一方、日本では武威におごる気風が続いていた。芳洲は朝鮮侵略を「無名の師(理由のない戦争)で両国の民衆が多数殺された」と断じた。
 上田さんは「国の恥を隠すのが一番の恥。外交を担うリーダーには大局的で率直な歴史観が不可欠です。戦後、私は東アジアの歴史学者たちに対して肩身が狭かったが、芳洲を知って救われました」と感慨深げに振り返る。
 上田さんは市民同士の交流を「民際(みんさい)」と名付けた。「年に数百万人が往来しても日韓の国民感情は悪い。雨森地区のような民際で補わなければ」。今やそれはかけがえのない安全装置というべきか・・・

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