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政治・国際
朝日新聞社

国連と日本人 過大な期待と幻滅・反感はなぜ生まれたか

初出:2015年11月4日、11月5日
WEB新書発売:2015年11月26日
朝日新聞

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 2015年は国連創立70周年、16年は日本の加盟60周年の節目の年。だが、日本人の国連に対する視線は、時を経るにつれて揺らいでいる。15年10月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)による「南京事件」の世界記憶遺産への登録をめぐって、分担金の凍結論が出た。元国連事務次長の明石康(84)は「59年前の国連加盟時に期待していた、国際社会の一員としての日本は、こんな姿ではなかった」と言う。なぜ、こうなったのか? 理想と現実の溝はなぜうまらないのか? 国連元職員、現職員の証言をまじえて考えてみる。

◇序章 「敗戦国」発、理念と壁
◇第1章 「人間の安全保障」広がらぬ輪
◇第2章 「万能」への期待と反動
◇第3章 それでも人材を世界へ


序章 「敗戦国」発、理念と壁

 あふれる難民にどう向き合うか。国際社会が問われていた。
 「今度の人、日本人だってさ」。中満(なかみつ)泉(52)が同僚のカナダ人女性から声をかけられた。「名前も聞いたことのない学者出身の人。またトップがそれじゃこの組織はダメかもね」
 米大学院を修了後、難民保護を担う国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入り、トルコに赴任していた。公金の私的流用疑惑などでトップが相次いで辞職し組織は大揺れだった。
 1991年1月の話だ。
 中満は「そう?」と返した。日本は国連経費の負担額では目立っていたが、国際機関でリーダーシップを発揮している人は思い当たらなかった。同僚が続けた。「その人、サダコ・オガタって言うんだって」
 上智大外国語学部長などを歴任した緒方貞子(88)だった。日本政府が後押しし、ライバルの各国の大臣経験者を抑え、UNHCRのトップに選ばれた。
 この月、湾岸戦争が始まった。多国籍軍がイラクを圧倒するなか、イラクからは多数のクルド人が隣国トルコをめざしていた。
 現場の中満にもUNHCR本部の決断が伝わってきた。着任数カ月の緒方が幹部会で「国境線を越えていない避難民も救う」と決めた。大胆な決断だった。UNHCRの本来業務は、国境を越えてきた「難民」の支援。イラク国内のクルド人避難民はイラクの内政問題のはずだった。
 当然、幹部会では異論が出た。緒方は「人間の常識で考えて、目の前にいるのに国内避難民だから助けないってのは、おかしいでしょう」と主張したという。
 今は国連幹部の中満が振り返る。「新しい人やるじゃんって、現場は大歓迎でした。私は国連機関におけるリーダーシップの重要さを学びました」
 冷戦が終わると各地で内戦が勃発。難民の時代に突入した。バルカン紛争、ルワンダ。前例踏襲は通用しない。事務総長との衝突も恐れない緒方の采配に世界が注目した。
 90年代後半。緒方を支えた日本政府は「人間の安全保障」という概念を掲げ、国連で本格的なルール作りに挑んだ。紛争や貧困、災害といった人間の命や生活を脅かす事態に、国家の枠組みを超えて取り組もうという新しい考え方だった。
 敗戦から半世紀。日本は国連通常予算の分担率で世界2位になり、自衛隊を海外に派遣し、国連の重要ポストに日本人を就けた。国連の政策にカネとヒトを出すだけでなく、そこにアイデアも出して存在感を示そうと挑んだ。
 難民危機のまっただ中にある今こそ発揮されるべき考え方だが、「人間の安全保障」を国連で主流化する試みは壁にぶつかった・・・

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