【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

社会・メディア
朝日新聞社

女の子だからというだけで 赤松良子さんと均等法30年

初出:2015年9月21日〜11月16日
WEB新書発売:2015年12月24日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 2015年は「男女雇用機会均等法」成立から30年。当時の労働省婦人局長で、その後に文部相も務めた赤松良子さんは大阪市で生まれ、父は洋画家、末っ子としてかわいがられ、おてんば少女だった。女の子だからというだけで、参政権も財産相続権もないのはおかしいと、小学生のころ、教壇で「女よ目覚めよ」と演説をぶったというエピソードも。必死に勉強して合格した東大法学部は800人中、女子は4人。国家公務員になれば差別はないと思ったが、女性を採用しているのは労働省だけだった。働く場での男女平等に道を開いた「均等法」法制化までの闘いを、赤松さんが自らの歩みとともに語る。

◇第1章  均等法に感無量、でも…
◇第2章  「青杉優子」が黙ってない
◇第3章 土壇場で決まった署名
◇第4章 政・財界に強い反対論
◇第5章 たとえ骨抜きの法でも
◇第6章 「満点ではない」と本音
◇第7章 入閣打診、ハワイの夜
◇第8章 非正規雇用、新たな差別


第1章  均等法に感無量、でも…

婦人局長、成立に奔走
 《1985年5月17日。修正を経て、男女雇用機会均等法は衆院本会議で可決、成立した。》
 成立の瞬間は、感無量でしたね。私は衆院の傍聴席に座っていて、拍手にこたえて山口敏夫労働相が深々と頭を下げる姿を見届けました。
 忘れもしません。法律ができるまで3年間という長い攻防がありましたから。仕事をやり遂げて、ほっとした思いでした。
 けれども一方で、残念な、悔しい気持ちもありました。経済界や労働側と折り合いをつけていくうちに、理想として描いた姿とはかけ離れた法律しかできなかったからです。どこで妥協したかなんていうことは、自分が一番よく知っていますしね。



◎機会を逃せない
 色々批判もされました。敵というか、相手はだんだん変わっていくのですが、最後の段階で批判を浴びたのは、婦人団体からなのよね。法案の条文を読んで「なんだ、(企業にとって強制力の弱い)努力義務ばかりじゃないの」と怒った。彼女たちの怒りも、理解できます。そうした女性たちの悔しさにも思いをはせました。
 けれど、妥協なくしては法律の成立は難しかったのです。努力義務にとどまっていようと、法律をつくったことが重要だったと私は思っています。このタイミングを逃せば、雇用の男女平等のための法律が整うのは、またずっと先に延びるだろうとも思いました。いまでも仕方がなかったと、そう思います。
 実際にその後の改正で「努力義務」は、企業などに採用や配置、昇進の差別を禁じる「義務」へ変わり、法律として大きく前進しました。
 「男女雇用機会均等法」こそが、わたしの人生で最大の仕事でした。この法律があるとないとでは、女性の働き方がまったく違います。世の中に法律は何千とあるけれど、日本の歴史を大きく変えた法律だと思っています。
 しかも私にとって、子どもの頃から一貫している考えと通じている仕事でもありました。それは幸せなことでした。



◎「女よ目覚めよ」
 《1929年、赤松さんは大阪市で生まれた。父は関西の洋画界で知られた画家の赤松麟作(りんさく)。末っ子としてかわいがられ、近所では「おてんば少女」として知られていた。》
 小さい頃は家や近所でちやほやされ、わりと威張っていました。ところが小学校に入ると、どうも居心地が良くない感じがし始めたんです。どうしてかと考えて、「女の子だからだということらしいな」とわかりました。
 当時、女の子には財産を相続する権利すらないわけです。兄は「かまどの下の灰までおれのものだ」なんてあからさまに言っていましたね。
 近所の兄ちゃんなんて「どんな偉そうにしても女には参政権がない」。そう言われたとき、女には2通りの反応があります。「そうなんだ、がまんしなきゃいけないものなんだ」と思う人と、「そんなこと、けしからん」と思う人。私は後者でした。女だからというだけで権利を否定されるなんて、とてもおかしいことだと思いました・・・

このページのトップに戻る