【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

文化・芸能
朝日新聞社

文豪・漱石の素顔 油っこいもの好き・徴兵逃れの「送籍」?

初出:2016年1月3日〜1月12日
WEB新書発売:2016年1月28日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 遠慮なく毒舌をはく友人・子規への手紙。血を吐き倒れた教え子に、毎朝栄養をつけるようにと名前を伏せて牛乳を下宿に届けさせていたエピソード。「妻は夫に従属するべき」と書きつつ、自立したヒロインたちを描いた。油っこいものが好きで、散歩に出ると砂糖付きピーナッツを買ってきた。そして、「徴兵忌避のため」とみられる北海道岩内町への転籍。「吾輩は猫である」にこんな一文がある。「私の友人で送籍と云ふ男が…」。2016年は夏目漱石の没後100年、熊本の旧制五高に赴任して120年。夏目漱石とは、どんな人だったのか。作品の記述や証言のほか、ゆかりの地や研究者を訪ねながら、漱石の素顔に迫る。

◇[正岡子規]親友の病死、心痛背負う
◇[師弟関係]生涯慕った門下生たち
◇[女性観]魅力的なヒロイン次々
◇[食への思い]羊羹描写にも甘党ぶり
◇[徴兵忌避説]「妙な関係」で北海道へ
◇[戦争観]日常描き軍国主義批判
◇[熊本の生活]英国で懐古、小天温泉行
◇色あせぬ漱石の世界観/姜尚中さん

◇文豪の足跡、各地に今も
◇[番外編]執筆3記者の座談会/江戸っ子文豪とその時代


[正岡子規]親友の病死、心痛背負う

 愛媛県立松山東高校(松山市)の中庭に、夏目漱石と近代俳句の祖・正岡子規の句碑が並んで立っている。

 〈御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花〉漱石
 〈行く我にとどまる汝に秋二つ〉子規


 1895(明治28)年秋、20代だった2人が詠んだ句だ。故郷の緑と人に接して病を癒やし、上京する子規を、当時松山で教師をしていた漱石が激励して送り出す。子規の最も有名な句〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉はこの後、上京途中に立ち寄った奈良で生まれた。当時月給80円だった漱石は、子規に10円貸したとも書き残している。
     *
 漱石はこの年の春、愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)に赴任した。子規は記者として日清戦争に従軍した後、喀血(かっけつ)して療養のため帰郷。8月に漱石の下宿に身を寄せた。「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」での同居だ。


 子規は1階、漱石は2階を使った。子規の病は結核。漱石は「伝染するといけない」と言われても構わなかった。2人の仲は学生時代から深く、同居は50日余り続いた。
 2015年11月、松山市で「俳人漱石」について講演した俳人の坪内稔典さん(71)はこう語った。「漱石は子規と住むようになって本格的に俳句を作るようになり、子規を読者にして批評を仰いだ。『いいのはほめたまえ』と」
 子規の帰京後は作った俳句を送り、添削を求めた。「愚陀仏庵は子規と漱石が文学的決意をし、文学者としての未来が開けた場所」と、坪内さん。「(漱石の)松山時代の句は、ほとんどへたくそ」と容赦ないが、子規とのやりとりで磨かれ、熊本に赴任した後に生まれた句が好きだという。
 〈菫(すみれ)程な小さきあ人に生れたし〉


     *
 1901(明治34)年、留学先のロンドンと、東京の「病床」にいる2人を手紙が結んだ。結核による脊椎(せきつい)カリエスに苦しむ子規から、漱石に悲痛な手紙(11月付)が届く。

 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ…モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ…書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。

 死期が迫る友の願い。漱石は12月付の手紙で、ハイドパークでの大道演説や二百五十円懸賞相撲を見に行ったことを書き送った。子規を思い、「西洋」を子規に見せるように、写実的に書いたようだ。
 その後の手紙は往復書簡集にもない。翌02年9月、病苦と闘い続けた子規は息を引き取る。
 死去から4年後も、漱石の悔いは心にのしかかって動かなかった。「吾輩は猫である」の中編自序で「気の毒で堪らない」と悲しみ、「子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞つた」と嘆いた。
 なぜ手紙は途絶えたのか・・・

このページのトップに戻る