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朝日新聞社

俺の死で日本が立ち直るなら 宇佐海軍航空隊生き残りの証言

初出:2015年8月13日〜8月16日
WEB新書発売:2016年2月12日
朝日新聞

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 「いつも戦争で犠牲になるのは、上官の命令で戦死していく若者たち。特攻が美化されてはならない。特攻が当たり前になってしまう世の中は、二度と来てはならない」――1939年10月、艦上戦闘機の搭乗員養成のための練習航空隊として大分県宇佐郡柳ケ浦村(現・宇佐市)に開隊した宇佐海軍航空隊。戦況が悪化していた45年2月、特攻訓練が命令されて「八幡護皇隊」などを編成。5月までに沖縄方面へ193人が出撃、154人が亡くなり、その多くは10代後半から20代前半の若者だった。生き残ったパイロット、出撃を見送った整備兵、特攻の結末に立ち会った衛生兵。戦後70年の2015年、それぞれの証言から、若者たちが遺したものを考える。

◇第1章 元隊員「美化はならぬ」
◇第2章 覚悟の裏に無念さ隠し
◇第3章 体当たり、原形とどめず


第1章 元隊員「美化はならぬ」

 本来は自分が死ぬはずだった――。元特攻隊員の船川睦夫(89)=鹿児島市=は長い間、そんな思いに駆られていた。
 鹿児島の種子島で10人きょうだいの8番目に生まれた。16歳の時、「親に仕送りしながら勉強もできる」と海軍飛行予科練習生になった。宇佐海軍航空隊〈※〉の飛行兵として配置され、1945年2月、特攻隊員に選ばれた。19歳だった。出撃に向けて、1日15時間の訓練に明け暮れた。
 一緒に飛ぶ特攻隊員らはほとんど船川と同年代。「男としてやるべきことはやっておこう」と話し合った。初めてたばこを吸い、酒を飲んだ。恐怖心を打ち消すためだったのかもしれない。
 特攻の命令をうけ、鹿児島県鹿屋市の串良飛行場に移動し、4月27日、翌日に出撃を控えていた。船川は遺品を整理し、友人との別れを惜しんでいた。
 そこへ、小隊長機操縦員の大石政則少尉が「機体を交換してくれ」と持ちかけてきた。船川の97式艦上攻撃機は、大石の機体より新しかった。「苦楽を共にしてきた愛機だから」と断っても、1時間にわたり頭を下げられた。大石は理由は言わなかった。船川は根負けし、大石と機体を交換した。
 交換したのは、大石が約2週間前に特攻出撃した際、故障して引き返した機体だった。翌28日、船川の愛機に乗った大石を先頭に編隊が上昇していく中、船川の機体はついて行けなくなった。船川は種子島に不時着。再出撃することなく、終戦を迎えた。大石は敵艦に突入した。
 船川は機体の交換をずっと悔やんでいた。「大石さんではなく自分が死ぬはずだったのに」。元特攻兵の仲間が、それぞれの故郷で「なぜ生き残ったのか」と後ろ指をさされていると聞き、船川も後ろめたさがあった。
 戦後40年が経ったころ、串良飛行場の慰霊祭で、大石の弟から「あなたのおかげで、兄は武士の本懐を遂げることができた。ありがとうございます」と話しかけられた。
 大石が特攻出撃前に書いたという日記を見せられた。特攻を引き返した後悔の気持ちがつづられ、「我は来るべきの日、率先第一の突撃を心中にひそかに期す」とあった・・・

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