【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

文化・芸能
朝日新聞社

原爆の図の画家は何を見たのか 反戦・反核の画家・丸木俊の生涯

初出:2016年3月3日〜3月9日
WEB新書発売:2016年3月24日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 「原爆の図」は、洋画家・丸木俊が、水墨画家の夫・丸木位里とともに30年以上にわたって描き続けた作品だ。俊は1945年、広島出身の夫に続いて原爆投下の数日後に広島入りし、3年後に「原爆の図」の制作を始めた。「原爆の図」は50年代から全国を巡り、中国、旧ソ連をはじめこれまで世界20カ国以上で展示され、戦後の反核平和運動の象徴の一つとなった。なぜ、描いたのか。描くことができたのか。埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」で今も何かを語り続ける作品の創作背景を、若き日を過ごしたパラオにまで遡り、たどったルポ。

◇第1章 27歳の画家は何を見たか
◇第2章 さっそうと、はつらつと
◇第3章 違和感、わいては消えた
◇第4章 水と油の共闘制作
◇第5章 「原爆」だけでない躍動感


第1章 27歳の画家は何を見たか

 都幾(とき)川沿いの自然豊かな土地にひっそりと立つ、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」。洋画家の丸木俊(まるきとし)(1912〜2000)と水墨画家で夫の丸木位里(いり)(1901〜95)の銅像が、訪れる人々を静かに見つめている。
 2014年の春、初任地の広島から埼玉に転勤し、美術館を初めて訪れた。さいたま市から関越道で1時間強。「遠いところをよく来てくださいました」という立て看板の文字に、心がなごんだ。
 がらんとした美術館の2階には、背丈より大きなびょうぶ絵の数々が並んでいた。私の想像力が及んでいなかった光景が、そこにあった。
 「ピカ」のあと、熱線で人びとの皮膚は垂れ下がり、着物はぼろぼろになり、水を求めて行列した――。広島で、多くの被爆者に体験を聞かせてもらった。原爆とはなにか、記者になる前よりは、「わかった」気になっていた。だが、服ははがれ、顔も体も汚れ、うつろな目をした妊婦の姿に、言葉を失った。
 「原爆の図」第1部「幽霊」。当初は別の題名だった。時は1950年2月8日にさかのぼる。東京都美術館で開かれた「第3回日本アンデパンダン展」で、「八月六日」として発表された。連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコードで原爆報道を規制していた。弾圧を恐れた日本美術会から、作者の丸木夫妻は「原爆」という言葉を使わないよう求められていた。
 「誇張だろう。人間がこんなに裸になることはないだろう」。キノコ雲の下で何が起こったのかは、当時まだほとんど知られておらず、会場からは戸惑いの声があがった。
 一方で、「ピカに遭いましたが、これどころではありませんでした。もっともっと描いてください」と老人に語りかけられた、とのちに俊は著書「生々流転」(58年)で回想している。
 「原爆の図」はそれから、核の恐ろしさを伝える、戦後の反核平和運動の象徴になっていった。50年代から全国を巡り、中国、旧ソ連をはじめこれまで世界20カ国以上で展示された。社会運動と密接に関わってきたまれな絵画だ。
 30年以上続く「原爆の図」の共同制作に積極的に取り組んだのは、夫妻のうちでも妻の俊のほうだった。生涯にわたって反戦、反核を訴えた。
 俊は45年、広島出身の夫位里に続いて原爆投下の数日後に広島入りし、3年後に「原爆の図」の制作を始めている。私は俊を直接知らない。なぜ、描いたのか。描くことができたのか。もう、本人に聞くことはできない。
 調べていて驚いたのは、俊が位里との結婚前、27歳の若さで、旧ドイツ領で当時は日本統治下の「南洋群島」に単身、旅に出ていたことだ。パラオのカヤンゲル島で、上半身裸のまま腰みのをつけ、現地の少女と満面の笑みを見せる写真が目に焼き付いた。
 原爆「以前」に目を向ければ、俊は「反戦画家」というだけでは語りきれない人生を歩んだのではないだろうか。
 当時の俊と私は同い年。俊が75年前に「南洋」に求め、目にしたものを追う旅に出た・・・

このページのトップに戻る