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朝日新聞社

セピア色の成田空港闘争 閣議決定50年

初出:2016年5月3日〜5月11日
WEB新書発売:2016年6月30日
朝日新聞

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 千葉県成田市に空港建設が閣議決定されたのは1966年(開港は78年)。もはや半世紀も昔のことだ。当初の名称は「新東京国際空港」で、激しい反対闘争の象徴でもあった。もともとは羽田空港の手狭さが建設の大きな理由で、国内線は羽田・国際線は成田という時代が続いたが、その後は羽田空港が国際化され、都心から遠い成田の不便さが目立つようになった。反対闘争も、もともと学生運動などの最盛期は過ぎつつあったが、バブル経済やその後の「失われた時代」の前夜で、いま振り返ると隔世の感がある。一方、強制収用で土地を取得した国のやり方が良かった、とはとても言えそうにない。成田空港と反対闘争を振り返る。

◇序章 成田空港、いまも羽田の影
◇第1章 降ってわいた「三里塚」計画
◇第2章 本補償、法に放置された44年
◇第3章 団結小屋、住民運動の普遍性
◇第4章 力ずくの収用、国に再考迫る
◇第5章 協議に至る教訓、国が継承
◇第6章 分裂の2派、歩み寄る事情
◇第7章 第3滑走路、過去の轍踏まぬ


序章 成田空港、いまも羽田の影

◎閣議決定50年、あの日から
 大型連休が始まった成田空港。格安航空会社(LCC)専用の第3ターミナルは連日、国際線出発手続きが集中する午後6時過ぎからごった返す。2015年春のオープンから、国内線も含めた利用客は、当初の見込みの約550万人を上回る約600万人。就航都市は国内12、海外は7から10に増えている。
 1978年5月の開港から38年。訪日外国人の増加やLCC路線の開設・増便を追い風に、15年度は発着回数23万5190回、旅客数3794万1435人と過去最高を更新した。第3滑走路の新設構想も、動き出した。巨大化する国際空港の姿がある。
 だが一方、発展に陰りも見え始めた。国際線に比重を移す羽田空港の存在だ。成田の開港以来、原則的に国際線は成田、国内線は羽田という「内際分離」のすみ分けがあった。それが10年秋、羽田に4本目の滑走路ができて一変、32年ぶりに国際線の定期便が復活した。当初の48便がその後5年で100便を超えた。欧米の主要路線は成田から羽田に移りつつある。
 もともと成田の計画が生まれたのは、拡張用地が不足した羽田の事情だった。国は新空港の建設位置を住民に全く説明しないまま決定し、強制収用で強引に農地を取得した。激しい反対闘争では、多くの死傷者が出た。
 滑走路が1本のみの「片翼」で開港し、二十数年かかって02年、2本目の滑走路が整備された。その間、力と力の対立は話し合いによる解決へと転換し、国の謝罪に至った。膨大な金と時間を費やした成田闘争の教訓はいま、各地の公共事業、住民運動に影響を及ぼしている・・・

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