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教育・子育て
朝日新聞社

血縁なくても幸せ家族 「パパとママと3にん」

初出:2016年4月6日〜4月14日
WEB新書発売:2016年7月14日
朝日新聞

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 日曜の午前。遊び疲れて抱っこをせがむ2歳の息子を真ん中に、47歳妻、46歳夫が川の字に寝転がる。「パパとママと3にん」。息子の口癖がでる。特別養子縁組で迎えた息子。自分たちを信頼し「パパ、ママ」と一生懸命呼んでくれる。それだけで幸せだ――。晩婚化・晩産化が進み、不妊治療や出生前診断といった命の始まりに関わる医療に接する人が増えています。「子どもが欲しい」と願う人たちの思いの先にある、それぞれの家族の姿を紹介します。

◇第1章 芽生えた「命」、見捨てたくない
◇第2章 この子たちに会えてよかった
◇第3章 血はつながってなくても親子
◇第4章 夫と愛犬と いま、幸せやん


第1章 芽生えた「命」、見捨てたくない

◎「凍結胚」に悩む 医療が進んだからこそ
 「もっと焦ってよ」
 夫との会話にとげが立つようになったのは、妻が40歳を控えたころだ。産める期限が迫っていると感じていた。排卵日と夫の出張が重なれば、特急電車で2時間かけて宿泊先のホテルに駆けつけた。
 九州に住む夫婦が、不妊治療を始めたのは結婚3年目。会社員の夫は42歳、小学校教諭の妻は38歳だった。1回2万8千円の人工授精を何度か試した。妊娠を強く望む妻に夫は重圧を感じ、次第に性行為に消極的になっていった。


 体外受精に切り替えたのは治療が2年を過ぎたころだ。1回約30万円。満期になった妻の生命保険の200万円が尽きるまで、と決めて福岡県北九州市の病院に変えた。
 注射と点鼻薬を使って卵胞を育て、妻は41歳の誕生日に初めて採卵した。10個の受精卵が培養され、凍結胚(はい)として病院に保管された。医師からもらった紙には胚のイメージ画像が載っていた。初めて夫婦の子ができたと感じ、自宅で何度も見返した。「この子たちがいる」と思うことが妻の心の支えだった。
 その凍結胚を子宮に戻し、妊娠。2カ月の時に出血があり、治療先で入院した。同室にいた同年代の患者3人と、治療経験を打ち明け合った。
 「採卵は多くて2個。採れないこともある」「この妊娠が最後の凍結胚」。妻が7個残っていると明かすと、口々にうらやましがられた。
 翌年長女が生まれてからだ。病室の会話が気になりだした。長女をいとおしく思うほど、残した凍結胚を思い出した。「もし別の胚が選ばれていたら」と何度も考えるようになった。
 治療仲間から「次はどうするの?」と聞かれると、「今の子育てが落ち着いてから考える」と受け流した。夫婦とも仕事が忙しく、蓄えも十分とは言えなかった。妻は年齢的な限界も感じていた。心のどこかで「もう生理が来なければ悩まなくてもいいのに」とも考えた。
 授乳が終わり、1年ほど経つと生理が始まった。夫と凍結胚について話し合う機会が増えた。「命はどこから始まるのだろう」「命の尊さを児童に教えながら、芽生えた命を見捨てようとしているのではないか」と思い詰めた。「あの子たちを迎えに行きたい」と夫に伝えた。夫も「命やもんね」と応じたが、先のことを考えると、夫婦とも治療を受ける決断ができなかった。
 復職前日、妻は、凍結胚を研究用に提供できないか医師に確かめにいった。破棄したくない。高齢で出産するのも怖い。納得できる理由がほしかった。かなわないと知ると、いよいよ子宮に戻す以外にないと思うようになった。長女が3歳になるころ、夫婦で決断した。
 残されていた7個の凍結胚を全て解凍し、最も状態のよい2個が妻の子宮に戻された。44歳。限界だと思った。
 帰りの電車を待って、人気のないホームにたたずんでいたとき、「やっと、全ての治療が終わった」と感じた。長男を妊娠したことがわかったのは、それからすぐだった。
 運動が得意で活発な長女(8)と、甘えん坊の長男(4)。夫はいま54歳、妻は50歳。遊ぶには、体力が必要な年頃になった。・・・

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