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朝日新聞社

もはや歴史?チェルノブイリ30年 セシウム半減、ソ連は全壊…

初出:2016年6月6日〜6月20日
WEB新書発売:2016年7月14日
朝日新聞

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 「事故直後はお金があってもモノがなかった。いまはモノがあってもお金がない」。旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦、1922−1991)のチェルノブイリ原子力発電所で事故が起きたのは1986年春。あれから30年余。この間、ソ連は崩壊して市場経済になり、冷戦が終わって世界は大きく姿を変えた。一方、主な汚染源である放射性のセシウム137は半減期が約30年。もう半分になったと見るか、まだ半分残っている、と見るか。政府認定の汚染レベルが引き下げられて手当が減額され、反発が広がる地域もある。この30年の動きを追った。

◇第1章 エチルアルコールで宴会
◇第2章 勝手に戻って、町は残った
◇第3章 外観はスマートになっても…
◇第4章 疎開の村、人気ベッドタウンに
◇第5章 村長だった彼女の献身
◇第6章 25年たって、なぜ福島で
◇第7章 子どもの甲状腺がんだけなのか
◇第8章 人の30年、セシウムの30年
◇第9章 子ども減り「負のサイクル」に
◇第10章 自らセシウムで人体実験
◇番外編 「あの事件」がつなげてくれた


第1章 エチルアルコールで宴会

 2016年3月31日、私はチェルノブイリ原発事故30年の取材で、ウクライナ北部の町ナロジチにいた。
 原発の西約70キロにある農村地帯だ。放射能汚染のレベルは、いまも相当高い。
 集会所で森林保護区の事務局長に話を聞いていたとき、一人の男がのっそり入ってきた。ハンチング帽をかぶっていた。
 「ミコラだ」という。家畜試験所長の? 思わず問い返した。「そうだ。あなたと野原で酒を飲んだミコラだ」。ほぼ26年ぶりの再会だった。


 30年前の1986年4月26日、チェルノブイリ事故は起きた。私が朝日新聞取材チームとして現地を最初に訪れたのは、4年後の90年6〜7月。当時はソ連の時代で、外国メディアとしては最も早い時期の本格取材だった。
 1カ月でロシア、ウクライナ、ベラルーシを回ったが、ナロジチの町で会った3人の記憶が強烈だった。
 町はちょうど疎開時期だった。地域の汚染レベルは「疎開が必要」。「強制疎開」に次ぐ2番目の高さだ。疎開決定が89年と遅れ、移住先の確保も大変とはいえ、汚染地に4年も住んでから動くのか、と驚いたのを覚えている。すでに町では新生児死亡率が上昇気味との指摘が出ていた。
 引っ越しで町がざわつくなか、私は家畜試験所に所長のミコラ・ガリンチク(当時48)を訪ねた。家畜の奇形出産増加について聞くためだった。
 一段落して、ミコラが「放射能を除く薬だ」といって三角フラスコに入った透明の液体を持ってきた。ウォッカか、と思ったが、仕事で使うエチルアルコールだった。ウォッカは飲み尽くしていた。
 ほぼ100%の生(き)のエチルアルコールを飲むのは初めてだった。火が口中に広がる。「火、火!」とのどを指すと大笑い。私は途中から水を半分いれた「水割り」にした。
 試験所には、パソコン技師のピョートルと町ソビエト議長のイワンもいた。3人は幼なじみだ。
 強烈なアルコールのせいか、みんなで近くの野原にでた。夏の太陽の下、きれいな小川の横で宴会になった。エチルアルコール、だれかが調達してきたウォッカ、チーズ、ハム、イチゴ。放射線を気にしながらの宴会が続いた。誰もが疎開を嫌がっていた。ピョートルは両親を残したまま町を去るという。「放射能があるなら見せてくれ、が父の口癖でね」


 興に乗ったミコラは「町とも友人ともお別れだ」といい、下着姿になって小川にバシャーンと飛び込んだ。奇形魚がとれた川だ。やけっぱちの気持ちが伝わってきた。


 3人はあれからどんな人生を送ったのか。ずっと気になっていた。そして今年、ナロジチを訪れた私のことを聞きつけ、ミコラは車で駆けつけてくれたのである。
 「エチルアルコールを飲ませたことはよく覚えてるよ」と笑った。ただ26年ぶりの話は意外なものだった。「私はこの町を離れていない。疎開しなかった・・・

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