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文化・芸能
朝日新聞出版

家康没後400年座談会 徳川宗家と御三家の子孫が語る秘話と秘宝

初出:2015年1月16日号
WEB新書発売:2015年1月15日
週刊朝日

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 水戸徳川家出身の最後の将軍慶喜は天皇を尊ぶ光圀に影響され、大政奉還は将軍になったときに決めていたという。一方、将軍が出なかった尾張家は国宝を擁する徳川美術館があるものの、宗家(将軍家)や紀伊家と違い、大河ドラマに取り上げられないことを悔やむ。紀伊家現当主の祖父はヨーロッパでパイプオルガンなどを収集し、プッチーニに「蝶々夫人」の感想を求められた……。徳川家康の息子たちが興した御三家は江戸時代、宗家に次ぐ地位を持ち、幕府で権勢を誇った。4人の現当主が秘話と秘宝を縦横に語り、あわせて各家ゆかりの地も紹介する。

◇「家宝」は家康公のふんどしです
◇刀を守ったのはマッカーサーの一筆
◇ベートーベンの直筆譜面を収集
◇新しい歌舞伎座は黄門様の木使用
◇徳川家ゆかりの地を巡る
  静岡・岡崎編/尾張編/紀伊編/水戸編


「家宝」は家康公のふんどしです

徳川宗家(以下宗家)――この4人で集まるということは、あまりないですね。

尾張徳川家(同尾張)――8年前、上野の東京国立博物館で「大徳川展」という展覧会のオープニングのときは4人でした。そのときくらいでしたか。

紀伊徳川家(同紀伊)――あとは、徳川家と松平家が年に1回集まる「葵交会」ですよね。

水戸徳川家(同水戸)――葵交会は、どのくらい集まりましたっけ?


尾張――家の数で34か35。当主だけでなく、ご家族もいらっしゃるので、150人くらいでしょうか。

宗家――戦前の徳川家・松平家の方たちは、今の僕らよりもはるかに緊密に交際をしておられたのだと思います。段々とばらばらになってきたので、まだお元気だった長老たちが、徳川で集まる機会をつくろうということになったのでしょう。

尾張――1回目の葵交会が1965年で、2014年で45回目でした。

紀伊――葵交会などで徳川一門が集まるときは、お互いご宗家、尾張様と呼びますけど、昔は家の中で「お印」で呼ばれるというのがありましたね。

宗家――戦前の爵位があるころには、家の中で働く職員も多かった。そういった職員の方たちが、例えば尾張様だったら「義崇様」と言うのは、大変失礼になります。そういうときにお印で呼ぶんですね。尾張様のお印は?

尾張――エゾ松印です。

宗家――それなら「エゾ松印様」ですね。

紀伊――箪笥やお道具にもみんなついていましたね。きょうだいがいれば、それぞれがお道具を一式持ってらっしゃるから、それが誰のものかわかるように。

水戸――スリッパにもありました。「軍」という字が縫いつけてあって、子どものころはなんだろう、と思っていた。それが父親の「軍配印」のスリッパでした。

尾張――ここにいる皆さま方そうだと思うのですけど、徳川ですと名乗ると、良くも悪くもちょっと浮世離れした存在だろうと思われます。コンビニには入らないでしょうね、とか聞かれるけど、毎日行ってます(笑)。普通の人になっちゃったんだ、とガッカリされます。

紀伊――高校生くらいになると歴史に興味を持つので、徳川だと意識する人が多かった。だから、高校からは「姫」って呼ばれるようになりました。

水戸――中学のころ、徳川将軍家を批判的に言った歴史の先生がいました。私を引き合いに出して、「こいつの先祖は悪かった」なんてことを言うわけです。本当は水戸家と将軍家はちがうけど、自分が悪く言われている気になる。頭にきて、江戸時代のテスト問題は白紙で出したことがありました。

宗家――そういうときは、「無礼者」と書いて出せばいいんです(笑)。

水戸――でも仕事では良いこともあります。社会人になると、名刺交換しただけで相手がすぐに顔と名前を覚えてくれました。

刀を守ったのはマッカーサーの一筆

宗家――ところで、徳川宗家では、私が12年前に徳川記念財団を立ち上げました。大名道具などは、まとまってあるからこそ意味がある。家に伝わる品々を財団の所有にして、相続などで散逸させないためです。尾張様のところでは、ずいぶん前につくられてますね・・・

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