【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

文化・芸能
朝日新聞出版

伊賀と甲賀、忍者座談会 子孫と研究家が語る歴史の裏舞台、秘話と秘宝

初出:2015年2月6日号
WEB新書発売:2015年2月5日
週刊朝日

このエントリーをはてなブックマークに追加

 「忍者はそもそも役職の名前」「忍びの者は戦国時代に高レベルの教養を身につけた」「伊賀と甲賀の対立など、とんでもない誤解。習得していた忍術、仕事内容も一緒」「忍者の持つ危機管理能力こそが大切」――。忍術書「萬川集海」に「正心」が最も大事とある。伊賀、甲賀の忍者は戦国時代、江戸時代をどう生きたか。伊賀藩の「無足人」、尾張藩の忍び、それぞれの末裔2人と忍者であり忍者研究家が、天正伊賀の乱や長享の乱など歴史の裏舞台・秘話を語り、極秘の古文書や巻物を披露する。

◇「機密の古文書が自宅から次々、見つかる」、「先祖が伊賀忍者だったと親から聞いた」
◇極秘の古文書に徳川御三家の宿
◇信長軍4万5千、戦った伊賀の乱
◇伊賀衆甲賀衆は対立していない


◇「機密の古文書が自宅から次々、見つかる」、「先祖が伊賀忍者だったと親から聞いた」

 ――伊室 伊室家は現在の三重県伊賀市東湯舟で、代々世襲制の庄屋をしていました。先祖が伊賀忍者だったことは親から聞いていました。


 ――川上 庄屋というと今でいう地域の長で、リーダーだったわけですね。どういう経緯で伊賀忍者になられたのでしょうか。


 ――伊室 4代目のところに伊賀忍者だった藤林家の娘さんが嫁がれて、その間で生まれた子どもが伊室家を継いでいます。藤林と縁故関係があるのはこの者だけです。それからは、伊室家の者が藤林の家に養子に行ったりとか、そういう関係が3代くらい続いていました。
 ――川上 忍者といっても、一般的にイメージされている伊賀上忍御三家として藤林、服部、百地だけでくくれませんよね。忍者はそもそも役職の名前ですから。江戸時代には無足人という名称でリーダー格の者をそれぞれの村に置き、その中から忍びの者という役人を選びました。伊室さんのご先祖も伊賀藩の無足人ですよね。だから当然、伊賀侍として郷士身分でもあったんです。
 ――伊室 伊賀藩ですね。時代背景から家系図を見ていくと、藤林家と伊室家に加え、岡室家と服部家の四つの家が同じ行動を取っていたようです。
 ――川上 戦国時代には伊賀衆として活動していたから、世間で広く知られる忍者のイメージには近いのかもしれません。甲賀忍者だった渡辺家はどういう流れなのでしょう。
 ――渡辺 私の先祖は家系図上は信長に仕えていて、1587年、秀吉政権の時代に、現在の大阪にある摂津渡辺庄もしくは愛知県の尾張方面から滋賀の甲賀にやってきました。そして1600年代中頃、尾張藩の忍び役を統率していた木村奥之助に見いだされて忍び役を任ぜられたようです。


 ――川上 江戸時代の忍者だったわけですね。
 ――渡辺 忍びが忍びらしく活躍したとされる戦国時代には、甲賀にはいなかった。木村奥之助の流儀を継承し、200年以上勤め上げて、江戸時代の終わりまで尾張藩の忍びを代々つないできています。
 ――川上 私自身は伊賀甲賀の出身でもなく忍びの者の家系でもありませんが、両者のお家に伝わっている忍術を縁あって学んでいます。非常に奇遇であり面白いですよね。どうやってご先祖が忍者だと知られたのですか・・・

このページのトップに戻る